「小咲もも」さんのツイート

最終更新: 2020年12月13日

小咲もも(@mangakakuhito) さんという主婦の方のツイートが

タイムライン上に流れてきました。

とても共感したので、本ブログ上でご紹介させていただきます。



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もし、「私って可哀想」という言葉を使いたくなった時は

それを「私は〇〇で悲しい」と、言い換えてみてください。

すると、少し心が楽になると思います。


可哀想、というのはレッテルですが、悲しいという感情は一時的なものです。

そして、悲しみを癒すために、自分ができることを考えてみてください。

それは、好きな映画を見ることかもしれませんし、

美味しいものを食べることかもしれません。



(ちなみに私はアイスを食べると大抵機嫌が良くなります)


思いついた解決策を、自分にできる範囲で、してみてください。

何も思いつかなければ、それは時間が解決するかもしれません。

「悲しかったね」と自分に優しく声をかけてください。

大切な自分に精一杯優しくしてください。

父を育てた親族たちは、いつもいなくなった母親の酷い悪口を言い

「お前は母親から見捨てられた、可哀想な子だ」と言いながら、父を甘やかしました。

どのぐらい甘やかしたかと言えば、父が電車を好きだった子供時代、

定期を買って毎日電車に乗せたというエピソードがあるぐらいです。

そんな父がどうなったかと言えば、

常に自分を「可哀想だ」という意識が抜けない人間になったのでした。

さらに、家族から大切にされても、「自分は可哀想だ」という意識が常にあるため、

それに感謝できない人間になりました。

おまけに、自分は可哀想だから許されるという意識で、人の気分を害することをしたり、

自分が見捨てられないか確認するために他人を試すような行動をする人間に育ちました。


父は、誰かに自分の落ち度を指摘されると

「自分はどれだけ可哀想な人間か」をアピールし出します。

そうすると、相手に口出しされずに済むことをわかっているからです。

問題が起きた時は、相手のことを無理矢理加害者に仕立て上げます。


しかし、不思議なことに、父は「嘘をついている」と自覚していません。

彼に存在するのは、「自分に不快な感情がある時、

常に自分は被害者である」という方程式と、

また、自分は不憫だから、少し話を盛っても良いという甘えです。


父は本当は、心根の優しい人です。

繊細で、傷つきやすい人でもあります。

ただ、その優しさを上手に表現できる方法と、

心が傷ついた時にどうすればそれを消化できるかを教わらずに育ちました。


幼少期の父が必要としていたのは、可哀想という言葉や、

過剰な甘やかしでは無かったと思うのです。

彼が必要としていたのは、悲しみを感じた時、それに寄り添ってもらうことでした。


また、自分がどんな感情を抱いたとしても、

それは他人を傷つける免罪符にはならないと教えてもらうことでした。

そして、「あなたはいろんな人から愛されているよ」と気づかせてもらうことでした。

私もかつては、父に影響されて、自分を可哀想だと思っていました。


でも、今はそう思うのは辞めました。

自分を可哀想という言葉に当てはめても、



何の解決にもならないし、目の前にある幸せにも気づき辛くなるし、

悲しみもちっとも癒えないからです。

自分を可哀想と思いたくなる時は

「ああ、私は悲しいと感じているんだな」と言い換えて、

その悲しみをどうすれば消化できるか考えます。

長くなりますが、どうしてこんな話をしたかというと、

現代は、誰かを「可哀想」と当てはめようとする人たちがたくさん存在しています。

そのロジックは、一見魅力的なんです。そこに当てはまれば、

自分は何の努力もしなくていいし、何をしても許されそうだし、

「悲しい」という感情を消化せずに、

『免罪符』としていつまでも握りしめることができそうだからです。


でもそのロジックの中で生きると、幸せにはなれないんです。

知っておいて欲しいのは、「可哀想」のロジックを使う人たちが、なぜそれを使うかです。


父の親族たちがその言葉を使った時、母親の悪口を吹き込んだ時、

彼らは父を不幸にしたいとは思っていなかったでしょう。


彼らは父を愛したけども、それ以上に「支配欲」があったのではないかと、私は思います。

彼らは父を「可哀想」という檻に閉じ込めたのです。

そして、悲しみを消化することではなく、

それを恨みとして母親にぶつけることを教えました。


そうしても、ちっとも幸せにはなれないのに。

しかしそうすることで、彼らは父に自分たちこそが

父を守る存在だという意識を擦り付けることができました。

可哀想という言葉を誰かにかけたくなるとき、

「支配欲」の他にもう一つのパターンが存在することがあります。


それは、本当は優越感を抱いているのに、

その優越感を見ないふりをするために、「可哀想」という言葉を使うケースです。

私も時折、他人に対して「可哀想」という言葉を使いたくなる時、

自分が優越感を抱いてないか、相手のことを下に見ていないか省みます。

優越感から来る「可哀想」という言葉は、

悲しみから立ち上がろうとする人々を、踏み潰すような言葉です。

一見相手に寄り添っているように見えて、それは相手の気力や体力を奪ってしまうのです。

しかし、自分の中では、「可哀想」という言葉をかけられる、

不幸な存在に同情できる自分は優しくて崇高な存在なのだ

というイメージが出来上がります。

そして、自分は清らかな善人であるという幻想の中で生きられるのです。

勿論、支配欲や優越感無しに、純粋に相手を不憫に思ったから、

「可哀想」という言葉が出てくることもあるでしょう。


特に「悲しい」という感情を共有するほど近しくはない存在が不憫な目にあった時や、

自分には想像もつかない悲しみに対して、「可哀想」という言葉を使うこともあります。

「可哀想」という言葉の全てが悪いわけではありませんが、

この言葉を誰かに使いたい時、少し立ち止まってみて欲しいのです。


彼らが本当に必要としているのは、可哀想と言うレッテルを貼られることではなく、

怒りを増幅させることではなく、

どうすれば立ち直れるかを共に考えることではないですか。

また、誰かの「可哀想」という言葉にすがりたくなる時、

その言葉をかけている存在が、

自分を支配しようとしていないかを考えてみてください。

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幼少期の自我が傷つき、インナーチャイルドとして

私たちに影響を与えます。


自分で自分を癒し、許しを与えることができないまま

私たちは自分を責め、苦しみ、他者にその代替を求め補完しようとします。


自分の感情をありのままに受け止め、受け入れることはとても大切です。


小咲ももさんが、どのような学びや気づきを経て、このツイートを

書かれたのかは存じませんが、

「こころをみつめ」自分に真摯に向き合ってきた方なんだろうな…と感じました。


他者の心の中に、土足で上がり込むことはすべきではないし

相互に安心できる距離を置くことは、とても大切です。


親子でも夫婦でも、職場でも相手を一人の人間として、承認や愛情を求めるあまり

自他の区別なく、思い込みや価値観のフィルターで、混同し、勘違いをしがちですが、

相互が対等な立場で、相手を尊重し、個々の人間性を保つ人間関係を作り上げることが

自律した大人として、とても大切な気がします。



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