愛を説くはずの宗教が憎悪を煽るとき…「終末論の暴走」
- 横山三樹生
- 3月20日
- 読了時間: 3分
愛が憎悪に変わる危険な思想の正体
「愛」の名のもとに「憎悪」を広げる──
その矛盾に、私たちは向き合ってきたでしょうか?
日本の原始仏教や神道には、こうした「攻撃的な宗教観」とは異なる、
他者を傷つけず、共生を重んじる精神があったはずです。
宗教とはなんなのでしょうか?
宗教が「暴力の免罪符」になる悲劇
戦争の歴史を振り返ると、宗教が「免罪符」のように利用される場面は少なくありません。
※ 十字軍の名のもとに、多くの命が奪われた歴史
※ 宗教改革の混乱で生まれた無数の戦争と弾圧
※ 無実の人間を虐殺した「魔女裁判」
現代においても「ジハード」や「聖戦」を名目にしたテロ行為が、後を絶ちません。
こうした暴力は、 「愛を説くはずの宗教」が、本来の役割を見失ったとき に起こります。
最も残酷なのは、こうした暴力が「正義」や「神の計画」という言葉で美化され、正当化されることです。その背後にあるのは、他者への共感を失い、憎悪を正義にすり替えた
“歪んだ信仰”です。
日本の原始仏教や神道が示す「攻撃しない精神」
一方で、日本には、他者を攻撃することを戒め、「共生」「調和」「和の精神」を大切にする思想が根付いています。
原始仏教の「不殺生」の教え
日本に伝わった原始仏教の根本教義のひとつが、「不殺生(ふせっしょう)」の思想です。
これは、「すべての命には尊厳がある」という考えに基づき、他者を傷つけず、慈しむ生き方を求めるものです。
「自分が苦しみを望まないなら、他者も同じように苦しみを望まない」という共感に
基づいた倫理観は、現代にこそ求められる精神です。
神道の「八百万の神」の考え方
日本の神道には、「八百万の神(やおよろずのかみ)」という考え方があります。
これは、自然やあらゆる存在に神が宿るという思想であり、他者を否定したり、自分の
信じる神だけを絶対視する排他的な姿勢とは無縁です。
もちろん我が国においても、虐殺と侵略の歴史は存在します。
しかし本来、「すべての存在に価値がある」という柔軟で寛容な考え方が、日本の
平和志向の文化を育んできたことは見逃せない事実です。
「宗教の名のもとに行われる暴力」への拒絶
「神の意志だから」と戦争を正当化する声ではなく、
争いの最中にいる市民や子供たちの声に耳を傾けなくてはなりません。
宗教の名のもとに行われる暴力と憎しみを拒絶することこそ、
私たちができる最も人間らしい行動だと思うのです。
「黙示録の実現」を望む勢力は、「神の名のもとに」争いを正当化します。
しかし、真に神の名にふさわしい行動は、戦争や暴力ではありません。
見せかけの正しさなど必要ありません。
憎悪の道具として利用されていることに、声を上げなければなりません。
暴力に飲み込まれるのではなく、人間の善性と平和への意志を信じる。
その選択こそが、未来に希望をもたらすと思うのです。

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