種をまく人㉙
- 横山三樹生
- 6 日前
- 読了時間: 5分
脆い希望
夜明け前の埠頭。錆びついた倉庫の隙間から差し込む、弱々しい朝の光が、仮設テーブルに置かれた青白いホロキューブを照らし出していた。倉持健の指が、キーボード上で疾走する。彼の目は、モニターに映し出される膨大なデータと格闘し、赤く充血していた。
「…見つけたぞ」
倉持のかすれた声が、張り詰めた空気を震わせた。その場にいたミドリと、もう一人の母親・絵里が、息をのんで彼の手元を覗き込む。
「Patibulumが遺したデータと、スアンさんの最後の通信記録を組み合わせることで、奴らのナノマシンと記憶操作の治療プロトコルの全貌を掴んだ。ユアンちゃんの免疫不全、カナちゃんの記憶障害、そして…絵里さん、あなたの娘さんの進行性の神経系障害も、これで…これで治せるかもしれない」
倉持は、旧知の医師に連絡を取っていた。かつて、ある事件で倉持に大きな恩義を感じ、
今はしがらみのない場所で、腕利きの研究医として小さなクリニックを営んでいる男だ。
「知り合いの病院で、極秘裏に治療を受けられる手筈を整えた。設備も、薬も、彼が何とかしてくれる。今すぐここを出れば、子供たちは…助かる」
「本当…? 本当なの、倉持さん…!」
ミドリの瞳から、大粒の涙が溢れた。彼女は眠っているカナのそばに駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。「よかった…カナ、よかった…!」
絵里もまた、娘の手を握りしめ、静かに嗚咽を漏らした。長い、長い悪夢が、ようやく終わる。そのはずだった。だが、彼女の瞳の奥には、ミドリの純粋な喜びとは異なる、深い絶望と焦燥の色が、暗い影のように揺らめいていた。
裏切りと代償
(嘘よ…そんなはずがない…)
絵里の心は、教団の囁きに囚われていた。「我々の技術でしか、あなたの娘は救えない。あの者たちが持つホロキューブこそが、最後の鍵。それを我々に渡せば、すぐにでも“本当の治療”を始めよう」――その言葉が、彼女の理性を蝕んでいた。倉持たちの言葉を信じられない。信じるのが、怖かった。
仲間たちが移動の準備に追われる、ほんのわずかな隙。絵里は、まるで何かに憑かれたかのように、テーブルの上に置かれていたホロキューブのケースへと、震える手を伸ばした。
「絵里さん」
背後からかけられた、静かで、しかし芯のある声に、絵里の心臓が凍りついた。ハルだった。彼は、絵里の尋常でない様子に、ずっと気づいていたのだ。
「それを持って、どこへ行くつもりですか」
「…どいて、ハル君。あなたには関係ない」
「関係なくない! それは、ユウトさんや、死んだスアンさんや、みんなの想いが詰まった、最後の希望なんだ! あんた一人のものじゃない!」
ハルは、絵里の行く手を阻んだ。絵里は、半狂乱で彼を突き飛ばそうとする。もみ合いになった二人は、開け放たれた倉庫の扉から、朝靄のかかる埠頭の突堤へと転がり出た。
「やめてくれ、絵里さん! 目を覚ませ!」
「うるさい! あなたに、娘を失う母親の気持ちが分かってたまるもんですか!」
狂乱した絵里が、渾身の力でハルを突き飛ばした。バランスを崩したハルは、濡れたコンクリートの縁で足を滑らせる。ゴツン、という鈍い音。彼の頭が、岸壁の岩に強く打ち付けられ、その若い身体は、崩れるようにしてその場に倒れ伏した。彼のこめかみから、赤黒い血がゆっくりと流れ出す。
「……あ……」
絵里は、動かなくなったハルの姿と、自分の手を見比べ、呆然と立ち尽くしていた。
足元には、無情にも転がるホロキューブのケース。
「ハル君…!」
騒ぎを聞きつけた倉持とミドリが、倉庫から飛び出してきた。目の前の惨状に、二人は言葉を失う。ミドリがハルに駆け寄り、かろうじて続く彼の脈と、浅い呼吸を確認する。
「生きてる…! でも、ひどい怪我よ!」
だが、彼らがハルを助け起こすよりも早く、けたたましいサイレンの音が、埠頭の静寂を切り裂いた。早朝の漁に出ていた地元の住民が、争いを目撃し、すでに警察に通報していたのだ。
パトカーが数台、猛スピードで突堤に乗り付けてくる。
「動くな! 全員、手を上げろ!」
警官たちが、絵里と、そして駆け寄ってきたミドリを取り囲んだ。
「違う、私は…!」ミドリが叫ぶ。
「言い訳は署で聞く!」
なすすべもなく、二人の母親は腕を掴まれた。その瞬間、ミドリの瞳が、物陰に隠れて動けずにいる倉持の姿を捉えた。彼の足元には、恐怖に震えるカナとユアン、そして絵里の娘が寄り添っている。
ミドリの表情から、混乱と恐怖が消えた。母親としての、絶対的な覚悟が宿る。
「倉持さん…!」
彼女は、警官に引きずられながら、最後の力を振り絞って叫んだ。
「子供たちを……お願いッ!!」
倉持は、ミドリのその魂の叫びに、全身を撃ち抜かれたかのように硬直した。だが、すぐに我に返る。これは、ミドリが命がけで稼いだ時間だ。
「行くぞ!」
倉持は、ホロキューブを拾い上げ、三人の子供たちの手を引いた。そして、警察の注意がミドリたちに向いている隙に、倉庫の裏に隠してあった古いバンへと駆け込んだ。エンジンが唸りを上げ、タイヤが悲鳴を上げる。バンは、パトカーの赤い光を背に、夜明けの街へと走り出した。
灰の中から
倉持が運転するバンは、ひた走る。後部座席では、三人の少女たちが、互いに寄り添うようにして眠っていた。倉持は、バックミラーに映るその無垢な寝顔と、脳裏に焼き付いたハルの最期、そして連行されるミドリの姿との間で、精神が引き裂かれそうになるのを必死で堪えていた。
数時間後、バンは都心から離れた、森閑とした地域の小さなクリニックの前に停まった。倉持の旧友である医師は、全てを察したように彼らを迎え入れ、すぐに子供たちの治療準備を始めた。
待合室の古びたテレビが、静かに朝のニュースを伝えていた。倉持が、疲労困憊の頭で
ぼんやりと画面を見つめていると、不意に、あの埠頭の映像が目に飛び込んできた。
『速報です。本日未明、東京湾岸の埠頭で、若い男性が頭から血を流して倒れているのが発見され、現在、意識不明の重体です。警察は、現場にいた女性二人から傷害事件の疑いで事情を聞いており…』
画面には、ストレッチャーで運ばれるハルの姿と、パトカーに押し込まれるミドリと絵里の後ろ姿が、無慈悲に映し出されていた。
「……ハル……ミドリさん……」
倉持の膝から、力が抜けた。ミドリの最後の叫びの重さが、今、現実のものとして彼の全身にのしかかる。希望は、あまりにも大きな代償の上に、かろうじて成り立っていた。
そして、その頃――。 この絶望的な悲劇を知る由もなく、ユウトは、小岩篤との“次の一手”について話し合っていた。彼の携帯端末に、ハルからの不在着信が何件も残っていることに、彼はまだ、気づいていなかった。
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