種をまく人 Phase 1 「揺らぎ」(再編集版 ①~④)
- 横山三樹生
- 5月23日
- 読了時間: 19分
更新日:5月25日
第1章:見えない都市、見えない飢え
スマートグラス越しに見える2030年の東京の夜景は、あまりに整いすぎていた。
レインボーブリッジの光は滑らかに配置され、ビル群のネオンはアルゴリズムに基づいて
呼吸のように瞬いている。完璧な人工の美。
それは、感動ではなく“冷たさ”を伴って迫ってくる風景だった。
「……これは、本当に現実か?」
ユウトは思わず、グラスを外した。裸眼の世界は、一瞬で色を失う。
ぼやけた靄と、灰色の空気。そこにいるのは、彼と同じように“透明”にされた人々だった。
ドラム缶から立ちのぼる煙。沈黙。空腹の匂い。光の街のすぐ足元に、
言葉すら持たない群れが佇んでいる。
ユウト、25歳。かつてはITスタートアップでフロントエンド開発をしていた。
だが、AIによる業務自動化と大規模なレイオフの波に呑まれ、職を失った。
今は小さなギグワークをつないで暮らしている。配送アプリ、ポスト広告、清掃代行。
誰にも記憶されない仕事。今日も一食しか食べていない。明日の予定もない。
“未来”という言葉が、もうどこか他人事のようだった。
夜の寝床は、“バーチャルカフェ”と呼ばれる無人ブース。古びた毛布と、使い古された
ヘッドセット。そこに横たわり、わずかなWi-Fiの残量で現実から逃れる。
「ここは、夢も飢える場所だ」ユウトは、自嘲気味にそう呟いた。
上空から、ドローンのプロペラ音が聞こえてくる。ビルの屋上で、サウジ系の若者たちがパーティーをしている。ドローンにはシャンパンが括り付けられ、空中で開けられた泡が夜空に舞う。
「Cheers to Tokyo! ハハ、マジで最高だな!」
その歓声の中に、金色のコートを羽織った少年の声が混じった。
「この国、なんでこんなに黙ってるんだろ。 俺たちが上に立つって、もう決まってるのに」
ユウトはその声に視線を上げたが、すぐに目を逸らした。
グラスを再び手に取るのは、やめた。
“見る価値のない現実”を、わざわざ見つめ直す必要はないと、思ったから。
身長は178センチ。かつては筋肉質だった。今は50キロを切る。鏡を見ることはもう、やめた。
実家には戻れなかった。家族とはもう何年も連絡を絶っていた。「大丈夫」と嘘をつき続ける
くらいなら、沈黙を選んだ方が楽だった。
そして、それはこの国の選び方にも似ていた。
ある日、隣のブースからこんな声が聞こえてきた。
「なあ……生きてる意味、あると思うか?」
返事はなかった。いや、“誰かに届く”ことすら、もはや想定されていない問いだった。
ユウトはその声に、胸の奥がざわつくのを感じた。
“意味”という言葉が、ずいぶん遠くに感じられた。
「生きる」のではなく、「延命する」。
「働く」のではなく、「つなぐ」。
「夢を描く」のではなく、「今をやり過ごす」。
気づけば、彼の日々はすべてが“代用”で成り立っていた。
バーチャルの景色。コンビニの栄養ゼリー。中古のスマホ。そして、“誰とも関わらない”ということ
自体が、もっとも安価な安全保障だった。
だが――ある夜、ユウトは突然、スマートグラスを取り出した。
ARポータルのアイコンを開く。そこには、ひとつのイベントが点滅していた。
《AR炊き出しデモ:静かな飢えの行進》
ユウトは迷わなかった。「……せめて、自分の姿を見てみたい」
彼はグラスを装着し、“もう一人の自分”に接続した。
表示されたのは、ガリガリに痩せた自分のアバター。
擦り切れたパーカー、くすんだ目元、やせ細った頬。
それは現実と寸分違わぬ、もうひとりの“自分”だった。
画面に浮かぶホログラムのサイン。
「働いてる。でも、食べられない。」
その瞬間、ユウトの胸の奥で何かが崩れた。
涙が、止まらなかった。
誰にも見られていないのに、それでも「見られている」気がしたのは、
きっと――自分自身の目が、まだ“生きていた”からだ。
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「見えないふり」は、本当に“守ること”なのか。飢えは、食べ物だけの話じゃない。
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第2章:静かな飢えの行進
2030年、春。
風のない東京の空に、無数の亡霊が浮かんでいた。
それは実体のないアバター。骨が浮き出た頬。空腹にむくんだ目。汚れた服と削れた靴底。
すべてが「そこにあるように」見えるのに、誰の手も届かない。
ARによる“バーチャル炊き出しデモ”。ユウトは、そこに自分自身の姿を重ねていた。
このデモには、拳も声もなかった。シュプレヒコールもプラカードもない。
ただ、街に“飢え”を映すだけだった。
スマートグラス越しに浮かび上がる数千人の影。若者、高齢者、子どもを連れた母親。
誰も声を発しない。けれどその沈黙が、何より重かった。
通行人の多くは、グラスをつけていない。だから、誰も“見えない”。誰も“気づかない”。
だが、グラスを通して見える者にとって、そこはこの国の“もうひとつの地獄”だった。
ユウトの胸元に、ホログラムのサインが表示される。
「働いてる。でも、食べられない」
その言葉は、自分だけのものではなかった。同じサインを掲げるアバターが、
いくつも、重なっていた。
彼はグラスを通して自分を見た。その瞬間、涙が止まらなかった。
「俺は、本当に“いない者”だったんだ」
初めて、そう自覚した。
このデモは、無名の若者たちによって立ち上げられた。中央政府や政党ではない。
非中央集権型のARネットワーク上に構築された、“不可視の抗議”。
誰も排除できず、誰も命令できない。
警察は手出しできなかった。なぜなら、“誰もいない”のに、“全てが見えていた”から。
SNSでは、この現象が世界中に拡散された。
「これは革命だ」「日本から生まれた精神的レジスタンス」「可視化による沈黙の破壊」
海外メディアは、賞賛と驚嘆をもって報じた。
だが――日本国内の“主流”は、違った。
テレビでは、コメンテーターが笑いながら言った。
「いやぁ、ちょっと過激じゃない? でも新しい表現ってことかな?」
別の番組では、IT犯罪専門家がこう警告した。
「このようなARデモは、公共空間の秩序を乱す恐れがあり、規制対象になる可能性があります」
その言葉に、何人かの政治家が静かに頷いた。
そして、誰も国会でこのデモに触れることはなかった。
AR空間で、ユウトはひと組のアバターに目を奪われた。
細い母親の腕に、やせ細った少女が抱かれていた。
ただそれだけの風景。だが、その“存在”は、言葉よりも強く、彼の胸を締めつけた。
プロフィールを確認すると、母親の名前はミドリ、38歳。夜勤の清掃バイトを2つかけもちしながら、
7歳の娘を育てているシングルマザーだった。
彼女の投稿が残っていた。
「誰にも“助けて”って言えないまま、気づいたら10年経ってたの。 でもこのデモの中で、
初めて“声を上げていいんだ”って思えたの」
その言葉が、ユウトの胸に深く刺さった。“声にならない声”が、ここにはあった。
数日後。テレビから流れたのは、驚くほど“静か”な報道だった。
「風変わりな抗議手法」「過剰な感情訴求」「倫理的懸念」
誰も、本質を語ろうとしなかった。
SNSでは、こんな投稿が注目を集めていた。
「日本には“声を上げる者”より、“空気を読む者”が多すぎる」
「食べ物はある。でも届かない」
「声を上げても、聞こえない」
「余っている家はあるのに、誰も住めない」
「この国の未来が消えていく音が、何よりも静かだった」
ユウトは、AR空間で自分が映っていたあの姿をもう一度思い出していた。
ガリガリに痩せた自分。誰にも見られていないはずの、自分の本当の姿。
それは、羞恥ではなく――ある種の“赦し”だった。
「……見られたかったんだ、きっと。誰かにじゃなくて、自分自身に」
彼は気づいた。飢えとは、ただ食べられないことじゃない。
“存在しないこと”そのものが、人を飢えさせるのだ。
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飢えとは、肉体の問題だけだろうか。見えない者として生きること
――それは、静かな死と何が違うのか。
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第3章:壊れた家族、切り捨てられた倫理
深夜の編集室。長谷川圭一は、一人静かに資料の束をめくっていた。
かつて、彼が新聞記者として取材した法案――「水道事業の民営化推進草案」。
その表紙の角はすり切れ、メモ書きが赤ペンで散乱している。
ページをめくるたびに蘇るのは、あの時感じた“腐敗のにおい”だった。
長谷川は数年前、「水道の自由化」法案の裏にある外資系PEファンドと国内建設大手の癒着を
追っていた。取材は核心に近づきかけていた――はずだった。
しかしある日、編集部の共有メールに匿名の一文が届いた。
「家庭は大丈夫ですか?」
翌日、彼は“異動”を命じられた。政治部から、生活欄への転属。取材中だったデータには
アクセスできなくなり、関係者との接触も禁じられた。
それは、「記者としての死」だった。
家庭も、静かに崩れていった。
当時、妻のミドリは30代前半。娘が生まれたばかりで、彼女は育児とパートを掛け持ちしながら、
必死に日常を支えていた。
だが、長谷川はそれに気づこうとしなかった。“国のため”に闘っている自分こそが、
正しいと信じていたからだ。
「国を守ってるつもりで、家族を見捨ててたのよ」
そう言ってミドリが家を出て行ったとき、長谷川は一言も言い返せなかった。
彼の中で、“家庭”と“国家”は、もはや両立しない概念になっていた。
今、彼のデスクの上には、ひとつの画像が映っている。
ARデモで拡散された、母と子のアバター。衰弱した少女を抱える細い腕
――その姿が、なぜか忘れられなかった。
「……まさか」
画像を拡大し、アーカイブからプロフィールを照合する。そこに浮かんだ名前――
「ミドリ(38)・夜勤清掃バイト/娘7歳」
長谷川はしばらく、その文字を見つめていた。
言葉が、どこにもなかった。
数日後、彼は古い手帳を開いた。
そこには、ミドリとの結婚当初に書き留めた言葉があった。
「この人の笑顔だけは、守れる気がする」
だが、守れなかった。それどころか、自分は“守る”という言葉を振りかざし、
もっとも近くの人間を犠牲にしたのだ。正義の名のもとに。
今、彼の周囲では、地方の学校が次々に統廃合され、図書館は閉鎖され、保育所は減っている。
その一方で、「デジタル田園都市構想」の名の下に、農村は外国人富裕層向けのARリゾートへと転換されていた。
京都の古民家が「Zen Retreat」として1泊20万円。長野の村が「サムライ・エクスペリエンスVR」
として法人契約されている。
その中で、日本人は“演出スタッフ”として配置されるだけだった。
長谷川は仲間の元記者から、こう聞いたことがある。
「田舎は、“ふるさと”じゃなくなった。いまや“投資対象”なんだよ」その言葉が、頭から離れない。
自分が正義と信じて追ってきた“国家”とは、誰のために、何を守っていたのか。
「俺が見ていた“国家”は、本当に“人”のためだったのか?」
長谷川は、そう自問しながら、画面に映る少女の顔を見つめた。
その目に、どこか、かつての娘の面影があった。
今さら、家族の元には戻れない。戻る資格など、自分にはない。
だが、“責任”だけは、まだ果たせるかもしれない。
たとえもう、誰にも届かなくても――たとえ、自分自身にしか聞こえなくても――
「俺はまだ、問いを持っている」
そしてそれだけが、彼を“人間”として繋ぎとめていた。
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正義とは、本当に誰かを守るものだったか。それが“家族”を壊した時、
正義はまだ正義であり続けられるのか。
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第4章:境界線に立つ女たち
深夜2時。ミドリは、介護施設の裏口から静かに入った。
重い扉を開けると、廊下には一本だけ残った蛍光灯が、不規則な唸りを上げていた。その光に、
誰かの足音が重なる。パーカーのフードを目深にかぶった若い女性スタッフ――名前は読めなかった。ミャンマー系か、ベトナム系か。話す機会も、ほとんどない。
「こんばんは」
ミドリが声をかけると、彼女は小さく頷いて、すぐに去った。
それが、彼女の「挨拶」だった。
この半年で、職場の風景は激変していた。フィリピン、ベトナム、パキスタン、ミャンマー
――言葉も文化も違うスタッフたちが、交代制で入ってきては、また姿を消した。
「勝手に触るな!」
「ニホンゴ、ムズカシイ、ガンバッテル…」
怒鳴る高齢者と、言い返す移民スタッフ。そのあいだに立つミドリの心は、毎晩すり減っていった。
彼女は、どちらの言い分も、分かっていた。けれど、どちらの味方にもなれなかった。
LINEのグループには、不穏な投稿が溢れていた。
「またあの子、私の靴勝手に使ってた」
「言っても通じないし、逆ギレするし」
「注意したら、“差別”って言われるよ。最悪」
だが、それを口にすれば“差別主義者”と断じられる。黙れば、苛立ちが積もる。言えば、
自分が傷つく。施設の上司は、こう言った。
「ダイバーシティは現代の義務です。偏見があるなら個人で改善してください」
ミドリは、何も言えなかった。言語でも制度でもない、“気持ち”がどこにも届かないと感じた。
ある夜、30代の日本人スタッフが休憩室でミドリに話しかけてきた。
「私、来月辞めます」声は小さく、震えていた。
「……誰のために働いてるのか、もう分からなくなってきて」
彼女は夜勤の間中、ずっと涙をこぼしていた。
ミドリの頭に浮かんだのは、7歳の娘の寝顔だった。
「かあさん、また夜いないの?」
夕方、家を出るときに娘が呟いたその声が、耳に残っていた。
ミドリは、答えられなかった。
家庭でも、職場でも、「わかってほしい」と思う気持ちすら、どこにも届かないまま
時間が過ぎていく。
“誰にも伝わらない疲れ”を抱えながら、彼女はまたユニフォームに着替えた。
午前5時。ミドリが更衣室で制服を畳んでいると、声がかかった。
「お疲れさま、ミドリさん」
話しかけてきたのは、ベトナム出身の介護士、スアン・チャンだった。
「昨日、YouTubeで“日本の初詣ライブ”見ました。……びっくりしました」
「いまや“バズらない”神社は、生き残れないからね」ミドリは苦笑しながら応じた。
スアンは、静かに目を伏せた。
「私、日本の神社……好きなんです。静かで、鳥の声がして、時間がゆっくり動くようで……
それが“日本の心”だと思ってました」彼女の声は、どこか祈りのようだった。
「でも、最近は巫女さんもホログラム。御朱印はNFT。 全部、効率と拡散のため。
恥ずかしいとは、もう思わないみたい」
ミドリはそう返しながら、どこか胸の奥が痛んだ。
“文化”は、疲れている人には重たいものだ。ミドリ自身、それを考える余裕もなかった。
けれど、スアンの言葉が静かに刺さった。
「私、日本が大好き。でも、日本人は、私のこと、好きじゃないみたい」
「頑張ってる。でも、“移民だから”って、挨拶しても返されないこと、よくあります」
「『文化を壊すな』って言われたこともある。でも私、壊したくない。守りたいんです」
スアンの目が潤んでいた。けれど、そのまなざしには、憎しみではなく“敬意”があった。
それは、日本人自身が忘れかけていた、“敬う”という感覚。
「私の父はヨーロッパ系。“混ざってる”って言われるけど、 “混血”だからって文化を壊すわけじゃない」
「でも最近の日本人は、自分たちの文化を……自分で大切にしようとしない」
ミドリは何も言えなかった。ただ、スアンの言葉が心に染みていた。
「私は、“外から来た人”だと思ってたけど…… もしかしたら、私の方が、“もう帰れない人”なのかもしれない」
そのつぶやきに、スアンはそっとミドリの手を握った。
「……わたしは、あなたの“となり”にいます」
その言葉が、ミドリの胸の奥を、静かにあたためた。
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境界線は、国籍でも、言語でもない。
「声にならない思い」を持つ人のあいだにこそ、それは存在している。
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第5章:種をまく人びと
上野駅のガード下。夜の湿気とアルコール、体臭と古い機械油が混ざり合ったような空気が
漂っている。ネオンの欠けた看板が点滅し、薄汚れたベンチにひとりの老人が腰を下ろしていた。
膝の上には、小型のAI端末。銀色のボディが、彼の骨ばった手に似合っていなかった。
「君も、“余生”かね?」
ユウトは足を止め、唐突なその問いに戸惑った。
「25歳で、余生ですか?」
老人は微笑みながら答えた。
「生物学的には若い。だが、社会が君に“次”を与えていないなら、 それはもう、“生き残り”じゃなくて、“置き去り”だ」
老人は、元大学教授だった。専門は生命倫理学。
今は〈魂の解放同盟〉という教団の末端信者だという。
教団は、“記憶を昇天させ、身体を手放す”という思想を掲げていた。
「この端末は、〈Anamnesis β〉。 私の脳波ログと記憶を定期的にバックアップしてくれる。
肉体が役目を終えたら、“意識”だけが残る。それが、私たちの“再生”だ」
端末のLEDが脈打つたびに、老人の瞳が淡く照らされた。
「……でも、それって本当に“生きてる”って言えますか?」
ユウトの問いに、老人は静かにうなずいた。
「死ななければ生きている――それは、“生”ではない。 “生きる”とは、“受け継ぐ”こと。
“何かを託す”ことだ」
「この国では、もう“託す相手”がいなくなりつつある。 だからこそ、記憶だけでも
“種”として残そうとしている」
老人は、スッと右手を伸ばし、端末を撫でた。
「経験や思想はコピーできる。だが、“まく手”がなければ、種は芽を出さない」
そのとき、遠くで何かが割れる音がした。
路地の奥、改装中のシャッター前に若者たちが集まっている。
ドローン、カメラ、配信用のスマホ。“老人狩り”を生配信する自警団まがいのグループだった。
「高評価と投げ銭よろしくー! 本日の年金ゾンビ、こちらです!」
ひとりが老人に近づこうとする。
ユウトの足が動いた。気づけば、彼は老人の腕を掴み、物陰へと引っ張っていた。
その一瞬、ライトがこちらを照らしそうになったが――
パン、と乾いた音が響いた。ドローンが空中で何かに弾かれ、墜落した。
「やめろ」
路地の奥から現れたのは、黒いコートの男。
片手には、旧式のスマホ。レンズは、若者たちをまっすぐに捉えている。
「ジャーナリストだ。すべて録画済みだ」
「再生数と広告収入、それだけが“正義”だと思ってるなら、 もう“視られてる側”になったことを自覚しろ」
男の言葉に、若者たちは舌打ちをして去っていった。
静寂が戻る。
男は、ユウトと老人をゆっくり見比べた。
「……君は、あの“AR炊き出しデモ”にいた若者か?」
ユウトが息を呑む。男の名は――長谷川圭一。
元政治記者。現在はフリーで、社会の底を歩いていた。
長谷川は、ポケットから小さな紙袋を取り出した。中には、古びた米の種もみが数粒入っていた。
「これは、在来種だ。教授から受け取った“記憶の種”だ」
「この国にはもう、撒かれるのを待っている土が少なくなっている。
でも、君のような若い手があれば――まだ、間に合うかもしれない」
ユウトは、その袋をそっと受け取った。中で小さな粒が、音もなく転がった。
「……なんで、俺なんかに?」
「問いを持ってるからだ。 怒りでも、悲しみでもない。“問い”こそが、君を“生かしてる”証拠だ」
ユウトは、路地裏の闇に向かってつぶやいた。
「……あんたたちは、何を信じてるんですか」
長谷川は迷わず答えた。
「人間の善性だよ。 誰かが傷ついているのを見て、心が痛む。 それだけで、この社会は
再生できるって信じてる」
「私たちは、“種をまく人”でありたい。 土に、データに、心に。いつか芽吹くと信じて」
ユウトは、拳を握った。その手の中にある小さな命の粒が、わずかに温かく感じられた。
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今、何を手にしているかではなく、何を“まこう”としているか
――それが、人間の希望なのかもしれない。
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第6章:長谷川の取材記録
老人狩り事件――。SNSに拡散された暴行動画を見たとき、長谷川は強烈な既視感に襲われた。
それは、かつて取材した極右系政治団体の手口と酷似していたからだ。
「怒りを武器に、若者を動かす」
憤りの矛先を与え、炎上と拡散を仕掛け、敵を“作り出す”。今回の動画も例外ではなかった。
切り取られた映像、効果音付きのナレーション、画面の端に浮かぶ“#報復”というタグ。
長谷川は調査の中で、発信元のIPアドレスと投稿時間のパターンに異常な規則性を見つけた。
AIによる自動投稿。そして、その大元のサーバーが紐づいていたのは
――東アジア某国の国家系シンクタンクに関連する財団法人のドメインだった。
文化投資、観光開発、AR神社の再生支援。一見「親日的」に見えるそれらの活動の裏で、
SNS上では若者の怒りと高齢者への敵意が、緻密に設計されていた。
「これは……偶然じゃない。情報戦だ」
旧知の技術調査員から受け取った報告書には、こう記されていた。
《外国資本による文化投資と、世代間対立を煽るSNS戦略に統計的相関が認められる。特に“構造的閉塞感”を抱える若者層に対し、心理誘導が複数のAIアカウント群で行われている可能性が高い》
怒りは、もはや自然発生的なものではなかった。仕掛けられ、演出され、拡散されていたのだ。
ユウトは思い出していた――あの夜、路地裏で見た老人狩りの光景。
ドローン。スマホ。若者の笑い声。そして、長谷川が立ちはだかり、制止した姿。
「やめろ!それは“正義”なんかじゃない!」
若者たちは逃げ去り、静寂が戻った。あの瞬間、ユウトは確信した。
これは偶然なんかじゃない。誰かが火を点けている――怒りという名の火を。
深夜のベンチにて
公園の片隅。切れかけた街灯の下で、長谷川とユウトは黙って座っていた。
「……この国が、どこまで壊れてるか、君はもう感じてるだろう?」
長谷川の声は静かだった。
「行政はAIに任せたふりをして、責任を放棄した。 国会では、誰がどこの国の利益を代弁しているのかも分からない。 “帰化”の壁すら溶けて、忠誠の座標は曖昧だ。 若者は沈黙し、老人は制度にしがみつく。 都市は『飽和した虚構』に支配され、地方は『投資対象』に変わった」
「……しかも怒りすら、もう“自然”じゃない」
「仕掛けられてるんだ。君が見た“老人狩り”、あれは偶然じゃない。背景には金が動いてた。しかも、日本人の金じゃない」
ユウトは、種袋を握る手に力が入るのを感じた。
「文化投資の裏で、“分断”が商品にされている。 怒り、憎悪、恐怖――全部、アルゴリズムで
最適化されて、広告収入に変えられていく」
「……本当の問題って、なんですか?」
ユウトの問いに、長谷川は答えた。
「“問い”を失わせること――それが、この国を奪う一番の手口だ」
「自分の頭で考えなくなった時、人は自由を放棄する。 そして、“代わりに考えてくれる何か”に、
すべてを明け渡すんだ」
「問いを持ち続けろ。それが、お前を人間としてつなぎとめる唯一の道だ」
ユウトはうなずいた。
「……答えを探しに行きます。自分の目で確かめたいことばかりだ」
長谷川は、どこか嬉しそうに笑った。
消えた若者たちと、都市の崩壊
午前6時、渋谷駅前。人影はまばらで、ただ風の音が空を滑っていく。
大型ビジョンはグレーのノイズを垂れ流し、コンビニの棚は商品で埋まっているが、誰も買わない。
若者たちは、都市から姿を消した。その行き先は、いくつかに分かれた。
・山へ向かった者たち 廃村を再生し、井戸を掘り、土を耕して自給自足の生活を始めた。
ネットを捨て、共同体名もSNSに載せなかった。
・仮想空間に移住した者たち Neo-Edo、Yamato-VR――和風デザインのメタバースに心だけを
住まわせ、 身体は現実のボロ家に置いたまま、感情だけをそちらに委ねた。
・海外へ脱出した者たち 台湾、モンゴル、フィンランド――理由は「この国に、いる理由がない」
からだった。
そして、都市に残ったのは――
高齢者。夜の街の住人。生活保護にも届かない中年たち。そして、“外国籍の自治ネットワーク”を
作り始めた者たち。
境界線を越える者たち
スアン・チャンが、ミドリの手をそっと引いた。
「ミドリさん、来ませんか?」
新宿の外れにある元オフィスビルの一室。廃墟を再利用した“もうひとつの日本”。
そこでは、ベトナム語、ネパール語、日本語が交差し、小さな診療所と共有キッチンが、かろうじて人々をつなぎとめていた。
「ここ、必要としてくれる人がいるんです」
ミドリは言葉にならない涙を堪えながら、頷いた。
目に見えない国の再生
朝、キッチンで煮込まれるトマトスープの湯気の中で、誰かが言った。
「この国が終わってるなら、もう一回、始めればいいよ」
「国ってさ、税金や制度の話じゃない。 “ありがとう”って言い合える場所が、国なんじゃない?」
その言葉に、ミドリは微笑んだ。小さく、でも確かに。
それは、“国の再生”ではなく、“関係の再生”だった。
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終わる国の中で、始める人たちがいる。誰かの「声にならない声」に手を伸ばすこと
――それが、種をまくということだ。
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