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種をまく人㉚

世界から消えた朝

 倉持が運転するバンは、ひた走る。後部座席では、三人の少女たちが、互いに寄り添うようにして眠っていた。倉持は、バックミラーに映るその無垢な寝顔と、脳裏に焼き付いた、血を流して倒れるハルの姿、そして連行されるミドリの最後の叫びとの間で、精神が引き裂かれそうになるのを必死で堪えていた。


 数時間後、バンは都心から離れた、森閑とした地域の小さなクリニックの前に停まった。倉持の旧知の医師――有坂は、全てを察したように彼らを迎え入れ、すぐに子供たちの治療準備を始めた。


 待合室の古びたテレビが、静かに朝のニュースを伝えていた。倉持が、疲労困憊の頭でぼんやりと画面を見つめていると、不意に、あの埠頭の映像が目に飛び込んできた。


『速報です。本日未明、東京湾岸の埠頭で、若い男性が頭から血を流して倒れているのが発見され、現在、意識不明の重体です。警察は、現場にいた女性二人から傷害事件の疑いで事情を聞いており…』


画面には、ストレッチャーで運ばれるハルの姿と、パトカーに押し込まれるミドリと絵里の後ろ姿が、無慈悲に映し出されていた。


「……ハル……ミドリさん……」


 倉持の膝から、力が抜けた。ミドリの最後の叫びの重さが、今、現実のものとして彼の全身にのしかかる。希望は、あまりにも大きな代償の上に、かろうじて成り立っていた。


その頃――。

ユウトは小岩と打ち合わせを続けていた。その時だった。倉持からの着信が、画面を震わせた。


「倉持さん!どうでしたか、子供たちは…」

『……ユウトか』


電話の向こうの倉持の声は、ひどくかすれ、押し殺したような響きを持っていた。


『子供たちの治療は、始まった。だが…ユウト、聞いてくれ。最悪の事態になった』


 倉持は続けた……


『ミドリさんが最後に…“絵里が裏切った”と叫んでいた。映像にも…あいつがホロキューブを奪おうとしてた姿が映っていた。あれは…間違いなく、あいつの意志だった』


倉持は、震える声で、夜明けの埠頭で起きた全てのことを、途切れ途切れに語った。絵里の裏切り。ハルとの争い。そして、ミドリの逮捕。


ユウトの耳には、倉持の声が、まるで遠い世界の音のようにしか聞こえなかった。血の気が引き、スマートフォンを握る手が、カタカタと震える。


「ハルが……意識不明…? ミドリさんが、逮捕…?」


 言葉が、意味を結ばない。目の前が、真っ暗になる。俺が、ハルをこの地獄に連れてきた。俺が、ミドリさんを危険な戦いに巻き込んだ。俺のせいで――。


『…ユウト、しっかりしろ!』


 倉持の叫び声で、ユウトは我に返った。


『今は、俺とお前で、ミドリさんとの約束を果たすしかねえんだ。子供たちを、絶対に守り抜くぞ』


「……倉持さん」


 ユウトの声は、感情が抜け落ちたように冷たかった。


「場所を教えてください。すぐに、そちらへ向かいます」


 彼の心の中で、何かが、音を立てて砕け散った。そして、その砕け散った破片の中から、燃えるような、しかし氷のように冷たい、新たな決意が生まれようとしていた。


二つの尋問

 警視庁の、無機質な取調室。ミドリは、刑事の執拗な尋問に対し、毅然とした態度で口を閉ざしていた。彼女は、倉持たちが逃げる時間を稼ぐため、そして子供たちの居場所を守るため、全ての罪を自分が被る覚悟を決めていた。


「私が、彼を突き飛ばしました。彼が、私たちの仲間を裏切ろうとしたから…」


それは、ハルを庇い、絵里の罪を自らが引き受け、そして倉持の存在を消すための、悲しい嘘だった。


一方、別の取調室で、絵里は独り、罪悪感と恐怖の海に沈んでいた。冷たいパイプ椅子の上で、彼女は自分の膝を抱き、ただ小さく震えている。頭の中では、何度も、何度も、あの瞬間が繰り返される。ハルを突き飛ばした手の感触。鈍い音。驚きと痛みに見開かれた彼の瞳。そして、静かに広がる赤い水面。


(私のせい…私が、ハル君を…)


 娘を救いたい一心だった。教団の囁き――「彼らの希望は偽物だ。我々だけが、真実の救済を約束する」――その言葉が、追い詰められた彼女の心を支配した。倉持が見つけたという治療法も、彼女には仲間を欺くための罠か、あるいは不完全な気休めにしか思えなかった。だから、唯一の確実な道だと信じて、ホロキューブを奪おうとした。娘の命を賭けた、母親としての、歪んだ正義の執行のつもりだった。


だが、その結果がこれだ。友人の息子を殺しかけ、仲間を裏切り、そして、自分自身も、娘の元から引き離され、この冷たい部屋にいる。


(私は…一体、何を守りたかったの…? あんなことをして、あの子は…私の娘は、今どこに…?)後悔と不安が、津波のように彼女を飲み込む。涙も枯れ果て、残ったのは虚無感だけだった。


 その時、ドアが静かに開き、一人の男が入ってきた。所轄の刑事ではない。隙のないスーツを着こなし、物腰は柔らかいが、蛇のように冷たい目をした男だった。公安部の「特別審議官」を名乗るその男――影山は、絵里の前に座ると、カウンセラーのような、慈悲深い声で語りかけた。


しかし、その眼差しの奥には、まるで対象者の心の動きさえ計算し尽くしたような冷たい観察者の光が宿っていた。


「絵里さん、あなたの苦しみは、よく分かります。娘さんを思う、母親の当然の行動だった。私たちは、あなたを責めるつもりはありません」


その予想外の優しい言葉に、絵里は顔を上げた。影山は、責めるどころか、彼女の行動に「理解」を示している。その声は、彼女の罪悪感を、ほんの少しだけ和らげる麻薬のようだった。


「あなたをここまで追い詰めたのは、あなたを信じず、不確かな希望であなたを翻弄した、あの人たちの方だ。あなたは悪くない」


影山は、一枚のパンフレットのようなものをテーブルに置いた。そこには、最新鋭の医療機器が並ぶ、清潔で完璧な治療室の写真が印刷されていた。


「本来であれば、あなたの娘さんは、今頃このような万全の環境で、我々の最高の治療を受けられていたはずなのです。……あの男、倉持健に“誘拐”されなければ」


「……誘拐…?」絵里の声が、か細く漏れた。


「そうです」影山は、深く頷いた。「彼は危険なハッカーです。子供たちと、あのホロキューブを使って、何を企んでいるか分からない。本当に子供たちを救う気があるのか…我々には大いに疑問です。あなたは、ハル君を傷つけてしまった罪悪感に苛まれている。ですが、本当の罪は、あなたの娘さんを含む三人の子供たちを危険に晒し続けている、倉持にある。あなたは、彼に利用された被害者でもあるのです」


影山の言葉は、絵里の心の中にあった、僅かな仲間への信頼を打ち砕き、代わりに「倉持こそが敵だ」という、新たな物語を植え付けていく。


「我々も彼の行方を追っています。ですが、あなたの協力があれば、より早く、そして安全に、あなたの娘さんを“救出”することができます」


影山は、悪魔の囁きを続ける。


「彼らが向かいそうな場所、倉持の知り合い、どんな些細な情報でもいい。教えてくだされば、我々は必ずあなたの娘さんを保護します。そして、約束通り、最高の治療を施しましょう。そうすれば、あなたの罪も…我々の力で、限りなく軽いものにできる。あなたの友人、ミドリさんのためにもなるのです。さあ、選ぶのは、あなたですよ」


それは、絶望の淵にいる母親にとって、あまりにも甘く、残酷な罠だった。罪悪感から逃れ、娘を「救出」し、ミドリさえも救えるかもしれない。失った全てを取り戻せるかのような、幻想の光。


 絵里は、震える唇で、目の前の男を見つめ返した。その瞳の奥で、最後の理性が、必死の抵抗を試みていたが、影山が差し出した「救済」という名の毒は、すでに彼女の魂の奥深くまで染み渡り始めていた。


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