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種をまく人 Phase 2 「絶望の境界線」(再編集版 ⑤~⑧)

第1章:買われた希望、売られた信頼


 ピンクとゴールドのバナーが、真夏の強い日差しに照り返され、目が痛くなるほどに

輝いていた。白いテントの下には、子ども向けバラエティ番組のような丸みを帯びた

フォントでこう書かれている。


《未来応援ポイント受給式 in サクラモール》


 その無垢を装った配色とフォントは、誰がどう見ても“やさしい国の贈り物”を演出して

いた。だが、そのあまりに作られた“善意”が、逆にユウトの胸をざらつかせていた。

壇上には、白手袋をつけた中年の男――神崎慶太(44)が立っていた。四世議員。

胸には小さな日の丸のピンバッジ。笑顔は完璧だった。フラッシュが彼の額に反射し、

その光が一瞬、観客の眼球に白い残像を焼きつけた。


「ありがとうございます、神崎先生……」


「未来のために、大切に使わせていただきます……」


 高齢者たちの声が揃ってマイクに吸い込まれ、神崎は丁寧に頭を下げる。その背後には、

「NeoMall」の巨大ロゴ。提携ECサイト――つまり、ポイント使用先の広告である。

会場の片隅で、ユウトは立ち止まった。スマートグラスは装着していない。裸眼で見る

この光景が、あまりに“わかりやすくて”、逆に現実味がなかった。


「……完全に買収イベントだな」


近くにいた青年が、誰にともなくつぶやく。

「でも、三万もらえるなら良くない?」隣の女性が、ため息まじりに返す。


それが今の日本だった。誰もが制度の“裏側”に気づいていながら、「助かった」「ありがたい」で

思考停止してしまう。


「なあ、未来応援ポイント、使ったか?」


そう言ってユウトに声をかけたのは、かつての同僚――倉持健だった。場所は、廃墟になったコワーキングスペースの屋上。風化したペンキが壁をはがれ落ちている。


「久しぶり」

「だよな……ここ、懐かしいだろ」


倉持はスマホを見せた。そこには二つのグラフ。一方には「政権支持率の推移」。もう一方には

「ポイント支給後のEC閲覧数と政党広告再生数」。

「な、わかるだろ。三万円の“対価”は、俺らの生活データ全部だよ」

「買い物、検索、位置履歴……行動のすべてが、マーケティングの材料になってる」

ユウトは、黙ったまま缶コーヒーのプルタブを開けた。

炭酸の抜けかけた音が、どこか虚しく空に溶けた。


「でも、助かったって声もあるよ」

「……あるよな」倉持はため息を吐いた。

「“楽”には勝てない。しかもそれが“操作された楽”だった時……気づけるかどうかなんだよ」


 ユウトは、しばらく言葉を失ったまま、目を閉じた。村のことが脳裏をよぎる。ポイントを拒否することが、どれほど孤独で、誤解されやすいかを、身をもって知っていた。


「俺さ……“誰かの役に立つ制度かもしれない”って思いたかったんだ」

「でも、使えば使うほど、俺たちは“選ばれる側”じゃなく、“選別される側”になっていく」


倉持は風で乱れた髪を直しながら、ポケットから紙切れを取り出した。それは、ユウトが配った

“無効化宣言”のコピーだった。

「俺……お前の決断、少しうらやましいよ」

「え?」

「選んだだろ。“使わない”って。俺は結局、手放せなかった。使ったよ。三万もらって、生活費に

あてた。娘の病院代もあるし、嫁ももう働けない。言い訳なんだけどな、全部」

ユウトは首を横に振った。

「言い訳じゃないよ。“誰かを守る”って、それ以上の理由はない」

倉持の目が、ふと揺れた。

「でもな……守ったつもりで、気づいたら“売った”ことになってるかもしれない。自分も、家族も、

未来も。そう考えると……怖いんだよ」

その言葉に、ユウトは答えられなかった。


彼もまた、日々の選択が“誰かの未来”を奪ってしまっているかもしれない、という不安を

持ち続けていたからだ。

風が強くなり、空の雲が流れていく。遠くに見えるモールの壁面には、こんな表示が浮かんでいた。


《ポイント利用者限定:医療費補助・教育補助キャンペーン中!》


恩恵の名を借りた“囲い込み”。選ばれた者だけが得をする社会。そして、それを“選んでいるのは

自分だ”という幻想。ユウトはグラス越しに、もう一度その文字を見た。


『未来を応援します。』


そのコピーが、むしろ「未来を奪います」と読めて仕方がなかった。

沈黙のまま、二人は夕焼けの光に照らされながら座っていた。誰も正解が分からない世界。けれど、

それでも問い続けなければ、もう“選ぶ自由”さえ失われる。

「……なあ、ユウト」

「うん?」

「お前、あの村……まだ続けるのか?」

ユウトは、ゆっくり頷いた。

「あそこだけは、誰かの都合で揺らがない場所にしたい。 間違うかもしれない。けど、間違ったと

しても、ちゃんと“自分たちで選んだ”って言えるようにしたいんだ」

倉持は静かに立ち上がった。

「いいな。……俺、いつか、娘と一緒に行けるかな」

「もちろん。いつでも」

二人は、言葉にならない何かを胸に抱きながら、それぞれの道へと歩き出した。

光が薄れていく空の下、廃墟のビルの影がゆっくりと長く伸びていった。

********************************

「支援とは、誰のためのものなのか」

――その問いを失ったとき、私たちは何を“売られている”のかすら、分からなくなる。

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第2章:山に灯る炎

 囲炉裏の火は、パチパチと静かに弾けていた。灰に埋もれかけた炭が、時折、小さく赤く光る。

その火を囲むように、村人たちが座っていた。年配の者、若者、母親、小さな子どもを抱いた女性。

それぞれが手にしているのは、ユウトが配った紙――「未来応援ポイント申請書」。

「……これ、スマホがないと申請できんのか?」

「隣町には、代行してくれる業者があるらしいぞ」

そんな声が交差する中、ユウトは一度深く息を吸い、立ち上がった。胸の奥が、熱く張り詰めていた。


「ごめん……俺、ちゃんと説明しなきゃいけないことがある」


皆の視線が、一斉にユウトに集まる。囲炉裏の火が、彼の頬を橙色に照らした。

「このポイントは、表向きは“支援”だけど…… 実際には、僕たちの暮らし全部が、“監視対象”に

されてる。 買い物も、移動も、医療も、教育も、行動のすべてが記録されて、分析されて、 “この人はこう扱え”っていうラベルが貼られていくんです」

ざわ…と空気が揺れる。誰かが火箸を握りしめた。

「でも、助かってる人もいるって話も……」

中年の女性が、控えめにそう言った。ユウトはうなずいた。

「そう。“助かる”って感覚は、本当だと思う。 でもその“助け”の裏にあるものが、“自由”や“選択”を

代償にしているなら…… それはもう、“支援”じゃなく、“誘導”です」

言葉を失ったように、囲炉裏のまわりが静まりかえった。

「だから僕は……この村で、“未来応援ポイント”を使わないことを決めました。 “無効化宣言”を出そうと思っています。必要なら、責任は僕が全部取ります」

言い終えた瞬間、肺の奥に冷たい空気が入り込んだ。ほんの数秒だったが、その沈黙は永遠のように

感じられた。


 やがて、年配の男――村長が、口にくわえていた煙草に火をつけながら、ぼそりと言った。

「……それでええ。自分の暮らしくらい、自分らで決めたらええ」

続けて、農具屋の老人が手を上げる。

「責任なんか、いらん。 ワシらは、“都会の同調”で生きとらんのやからな」

パチ……と炭がはじけた音とともに、誰かが小さく拍手した。それは次第に広がり、囲炉裏のまわりにゆるやかに連鎖していった。

火が落ち着きはじめた頃、ユウトの隣に座っていた青年――ハル(19)が、ぽつりと問いかけた。

「……ユウトさん。“倫理”ってさ。いまの時代に、意味あると思ってる?」

その問いは、どこか投げやりで、それでいて真剣だった。

ユウトは少しだけ間を置き、焚き木をかき混ぜながら答えた。

「“ある”かどうか、じゃなくて……“なくしたくない”んだよ」

「倫理って、誰かが見ていないときに、どう振る舞うか、ってことだと思う。 誰も見てない時

でも、“損してもこっちの方がいい”って、自分で選べるかどうか……」

ハルは、納屋の壁に貼られた古びたカレンダーを見つめた。

「でもさ……現実って、金と便利が勝つじゃん。 みんな苦しいのに、“正しいこと”なんて遠すぎて……見えないよ」

その言葉に、ユウトは頷いた。

「……そうだね。遠いと思う。でも、“その遠さ”を手放したら、 僕たちの生き方は、“誰かの都合”に

全部、決められる」

「たとえば、三万円。“ありがたい”って思っても、 それが“この人たちは3万で操れる”って思われてるなら…… それ、もう“商品”になってるんだよ」

ハルはうつむいたまま、小さな声でつぶやいた。

「……俺たちって、ずっと“取り残されてる”って思ってたけど、 “残ってるもの”の方が、本当だったんだな」

囲炉裏の火が、再び音を立てた。

「田んぼ、川、味噌の匂い、子どもの声…… ここには、まだ“誰かの目じゃない何か”が、ちゃんと

あるんだよね」

ユウトは静かに笑った。

「だからこそ、ここで“倫理”を、もう一度作り直さなきゃいけないんだと思う」


 その夜、ユウトは村の端にある畑に立っていた。風が稲をなでる音が、夜の静けさに混ざっていた。

ふと、地面に落ちていた申請書の紙切れが、風に舞い上がる。ユウトはそれを拾い上げ、ぎゅっと握りしめた。

「もう、誰かに決められるのは……ごめんだ」

そして小さなマッチを擦った。炎が、紙をゆっくりと赤く、黒く、そして灰色に変えていく。

それは拒否の証ではなく、“自分たちで始める”という小さな火だった。

それを見ていたハルが、背後からぽつりとつぶやいた。

「……ユウトさん。俺も、そっちに行っていい?」

ユウトは振り返らずに答えた。「ああ。こっちの土は、まだ生きてるから」

風が二人の間を吹き抜け、畑の土がわずかに湿っていた。

そこに、確かに“芽を出す予感”が、宿っていた。

********************************

「正しさ」とは、“遠くて見えない”からこそ、手放してはいけない。

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第3章:受け継がれる議席

 永田町の白亜の議員会館は、朝の陽にまぶしく照らされていた。だが、その光が届くのは、建物の

外壁までだった。中に入れば空気は一変する。冷えた静けさ。十数年前から何も変わらぬ廊下の匂い。絨毯の柔らかさまで、記憶のままだった。

長谷川圭一は、その中をゆっくりと歩いていた。

ジャーナリストとして、幾度も通ったこの場所。だが今は記者証もなく、肩書もない。あるのは、

一枚の未公開レポートと、いくばくかの悔恨だけだった。

壁に貼られたポスターが、視界の隅に映る。


《神崎慶太(44)―未来をつなぐ、責任ある政治》


 ユニフォームのような白手袋。作られた笑顔。誰かの模倣のようなスローガン。彼は、まるで「世襲された議席」をまとう商品だった。

神崎慶太――四世議員。祖父は戦後政治の礎を築いた人物、父は三期務めた文科大臣、母方も市長・県議の系譜。彼の選挙区は、いつしか「神崎町」と呼ばれ始めていた。


支援者名簿、パーティー券、地元建設業者との会合、葬儀の弔電まで――すべてが父から子へと、

遺産のように丁寧に引き継がれた。

政治とは、理念ではなかった。それは「家業」だった。


未来応援ポイント。その制度設計の裏には、神崎の影が確かにあった。表向きは「生活支援」だが、

実際は国家主導のプロファイリング。支出データや医療履歴が蓄積され、選挙区単位で投票行動が予測される。利権は彼の地元企業に集まり、補助金は後援者に流れる。その仕組みは精巧で、滑らかで、透明な“合法”のベールをまとっていた。


そして彼は、言うのだ。


「私は、国民の不安に寄り添っているだけです」

その一言の下で、誰かの生活が操作され、誰かの未来が売り渡されていることなど、誰も気づこうとしない。あるいは、気づいても“それが一番楽だから”と飲み込んでしまう。

長谷川の手には、古びた紙の束があった。

数年前、まだ記者だった頃に手に入れた未公開の内部レポート。そこには、こんな一節があった。

「現職議員の約3割が、親の地盤を引き継いで当選している。 世襲は政治家ではなく、“制度の穴”である」

彼はかつて、水道民営化の背後にいた企業癒着の構造を追っていた。米系PEファンド、国内ゼネコン、そして神崎の事務所の秘書と繋がるルート。だが報道直前、社の上層部から止められた。

「睨まれたくない」と。その翌日、彼は“異動”を命じられた。


そして、家庭が壊れた。


妻――ミドリは、当時まだ30代前半。娘は生まれたばかりだった。

「国を守ってるつもりで、家族を見捨ててたのよ」

別れ際に言われたその言葉は、今も胸の奥に突き刺さっていた。

神崎のポスターを見つめながら、長谷川はスマホを開いた。

「もし仮に、俺が立候補するなら── 三バン(地盤・カバン・看板)とは一切無縁の方法で

挑まなきゃ意味がない」古い編集仲間に送ったメッセージに、返信が届いた。

《お前、まだ“未来”を諦めてなかったんだな》

その一文を見た瞬間、胸の奥で何かがふたたび灯った気がした。


 夜。長谷川は小さな喫茶店で、資料を広げていた。

そこに、高野蒼一が現れた。36歳。地盤も後援会も持たず、だがどこか凛とした風をまとう男だった。

「ご紹介いただき、光栄です。長谷川さん」

「君が……“代弁者ではなく、共鳴者でいたい”と言った男か」

高野は頷いた。

「現状の“仕組みの中”で勝とうとする政治には、もう未来はありません。 僕たちが問うべきは、

“誰に任せるか”ではなく、“どう生きるか”のはずです」

長谷川は頷きながら、ゆっくりと話し出した。

「政治を変えるには、まず“三バン”を潰す必要がある」

「地盤、カバン、看板ですね」

「そう。“地盤”――地元のしがらみ。票田、後援会、利益誘導。 “全国テーマ投票制”にすれば、教育・医療・環境など、関心ごとで候補を選べる」

「“カバン”は選挙資金ですね」

「全員に同じ額の“ベーシック選挙予算”を支給する。広告費は上限を決めて、すべての出費はネットで公開。“透明”以外に、腐敗を防ぐ道はない」

「“看板”……これは難しい」

「親が政治家、有名タレント、有識者という“名前”で票を取るやつは、もういらない。 必要なのは

“聞ける人間”。“語る”より、“共に考える”対話力だ」

「……“市民前審査”を導入するという案は?」

「賛成だ。模擬討論、ワークショップ、倫理審査。それを通過した者だけが、候補者になれる」

沈黙のあと、高野が静かに言った。

「長谷川さん……あなたがそれを語るなら、僕らの世代に伝えてください」

「……いや、俺じゃない。君だ」

長谷川は資料を閉じた。

「俺は、もう“語り手”じゃない。“つなぎ手”になりたい。 声なき人の声が、政治になる世界

――それが俺の、次の仕事だ」


 その夜、彼は一人の記者から一通の封書を受け取った。中には、神崎の選挙資金と“宗教法人”の関係を示すメモと、1本のUSBメモリ。

《魂の解放同盟》《NeoMall広告プラットフォーム》《匿名仮想通貨送金ログ》すべてがつながり始めていた。

長谷川は手帳を開き、こう書きつけた。

「これは、ただの腐敗じゃない。“国家”の顔をした何かとの戦いだ」

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「受け継がれた正義」とは、本当に正義なのか。

――語られなかった声が、未来のかたちを変えようとしている。

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第4章:池袋国と選別の街

 そこは、もはや「東京」ではなかった。

2031年。池袋西口。再開発が凍結されたその一帯に、奇妙な違和感が流れていた。日本語よりも

多国語の看板が目立ち、中国語、ベトナム語、アラビア語が入り混じる。そして、その簡略化された

漢字すら、何を意味しているのか分からなくなっていた。

デジタルサイネージが、無機質な声で繰り返す。

《未来応援ポイント 最大20%還元》

《医療アカウント登録で移住支援》

《NeoMall提携診療所へようこそ》


まるでここが“別の国”であることを、丁寧に宣言しているかのようだった。

「ようこそ、“池袋国”へ」

電子翻訳機越しに、コンビニ店員が笑顔を見せる。自動音声と口の動きが合っていない。

それが余計に、不気味だった。


 スアン・チャンは、その言葉にかすかに頷きながら、ケアワーカー用のIDを首にかけ直した。ここでは、日本語で話しかけても返事が返ってくるとは限らない。それでも、彼女はこの街を何度も訪れていた。


「ケア訪問、スアン・チャンです」

そう言って、彼女は中国系富裕層が暮らす邸宅のインターホンを押した。

玄関は、自動ロック式。顔認証ゲートを通過すると、冷たい白い光が彼女を包んだ。床はピカピカに

磨かれた大理石。壁には「親孝行は最大の徳」という書が飾られている。


「お待ちしておりました、スアンさん」


出迎えたのは、母親――リ・シュイ。物腰は柔らかく、礼儀も丁寧だった。だがその“完璧さ”が、

どこか不自然だった。

ベッドルームに案内されると、少年が横たわっていた。細い管が腕に刺さり、酸素マスクが顔を覆っている。

「最近、少し元気がなくて……検査続きだったので、気が立ってるのかもしれません」

スアンは子どもの手をそっと握った。冷たい。だが、それ以上に彼女を緊張させたのは、

隣室の気配だった。


 手洗いを借りるふりをして扉をすり抜けた瞬間、ドアがわずかに開いていた。そこには、まるで病院のサーバールームのようなラックが並び、無数の小型端末が動いていた。


《MedBase-Ki》――小児用生体データ管理システム。


画面にはこう表示されていた。

《候補No.127》《臓器適合度:A》《移植推奨時期:12ヶ月以内》

スアンの指先が、凍りついた。

その隣には、紙が一枚。「保護者同意書(臓器提供意向)――提供予定臓器:左腎臓、肝葉、角膜」署名欄には、両親の名前と日付――2週間前。


背後から、シュイの声が響いた。

「気になりますか? ……でもこれは、生かすための仕組みなんです」

その微笑は穏やかだった。だが、氷のように冷たかった。


 応接室。中国様式の家具、無臭のアロマ、そして壁に掲げられた紋章――火の鳥のマーク。

それは〈魂の解放同盟〉の象徴だった。

「私たちはね、スアンさん……“地球の限界”に向き合っているんです」

「だから、“命”を管理することが、これからの善意のかたちなんです」

「あなたも理解できるはず。 子どもを救うために、別の子どもの命が使われる。 

それは“贈与”です。“感情”ではなく、“倫理”として考えるべきなのです」

スアンは、言葉が出なかった。


「“未来応援ポイント”のおかげで、生体情報はすべて可視化されました。 移民や戸籍のない子ども

たちの中から、“提供対象”を最適化できるのです」


リ・シュイは笑顔を崩さない。


「日本は、私たちに“贈られた国”なのです」


その言葉の“贈られた”という響きに、スアンの胃がきしむように痛んだ。

彼女は、そっと礼を言い、玄関を出た。だが、肺に吸い込んだ空気すら、異物のように重かった。


“これは戦争だ―― 音も銃もない、静かな倫理の戦争だ”


 背後で、AI端末〈Anamnesis〉の青白いLEDが脈打っていた。まるで彼女の記憶をも、吸い上げようとしているかのように。


その夜、スアンはアパートのベランダで空を見上げた。

「……私、日本が好きだったのに」

呟いた声は、風に溶けて消えた。もう、自分が帰る場所は――どこにもないような気がした。

********************************

“生かすための仕組み”は、本当に命を守っているのか?

――その正義の裏で、誰が“選別”され、誰が“贈られている”のか。

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第5章:選ばれる子ども、売られる未来

 スアン・チャンは、その日、夢を見た。夢の中で、ひとりの少年が、白いシーツに包まれて何かを

叫んでいた。言葉は聞こえない。ただ唇が「やめて」と動いていた。

目覚めたとき、喉の奥が乾ききっていた。息を吸うだけで、体の奥が軋んだ。

「……あれは夢じゃなかった」彼女はベッドの中で、小さくそうつぶやいた。


未来応援ポイント――それは、「生活支援型デジタルインフラ」として導入された。


買い物履歴、通学ルート、医療記録、嗜好、身体データ……あらゆる情報がタグ化され、システムに

吸い上げられていく。その情報が、ある一線を越えたとき――「選ばれる」。

移民2世、戸籍不明の子どもたち、障害児、あるいは「孤立している未成年」。

「適合対象」そのラベルを貼られた瞬間、子どもたちは“未来の部品”になる。


 池袋南部の一角にある地下施設。そこには、表向き存在しない“就労支援センター”があった。

入り口には目立たない看板。《情報支援窓口(予約制)》ドナーカフェ、と呼ばれていた。

中に入れば、個室ブースが並ぶ。一見、普通の面談室のように見えるが――壁にはこう書かれている。


「移植適合候補の方には特別支援がございます」

「提供に応じていただければ、学費・住居支援が適用されます」


 監視カメラはなく、代わりに生体センサーが常時作動していた。

スアンは、その施設の出入口に、制服姿で立っていた。通報を受けての介入支援という名目だったが、彼女はもう“現場の言葉”を信じていなかった。

施設の奥から、小さな女の子が出てきた。10歳くらい。日本語がうまくない。手にはピンク色の紙袋。中にはジュースと、小さなぬいぐるみ。

「おかあさんには、ないしょ、って言われた」その言葉に、スアンの指が震えた。

夜、彼女は都庁の旧知の記者に会い、情報を投げ込んだ。だが、返ってきたのはこうだった。

「わかってるよ。でも、それ“証拠”になるか?」

「現場写真、医療連携ルート、教団との接点…… 全部つなげて、一発で裏付けできるものじゃないと、上が動かない」

スアンは、視線を落とした。

「……じゃあ、子どもが“選ばれる”まで、待つの?」記者は言葉に詰まり、最後にこう言った。

「君が“見る力”を持ってるのは、わかってる。 でも、“信じてくれる誰か”がいなきゃ、それは“妄想”にされるんだ」


 一方、別の場所で、長谷川圭一は資料を前に眉をひそめていた。

差出人不明のUSB。中には、未来健康科学団地内で隠し撮られた映像と、資金移動ログが収められていた。映像の中で、白衣の男が中国語で何かを読み上げる。カメラの端に映るのは――神崎慶太。

「これはもう、“スキャンダル”じゃない」長谷川は、声を押し殺してつぶやいた。


「制度の裏に、“臓器マーケティング”が仕込まれてる。 しかも、それを動かしてるのが、

“宗教”と“国家”の狭間にいる組織だ」


記録によれば、〈魂の解放同盟〉は二つの流れで資金を得ていた。

ひとつは、終末期高齢者の“記憶昇天”。AnamnesisというAI端末を通じ、脳波・意識ログをバック

アップし、本人の同意のもと“安楽死”を推奨する。その肉体は、臓器提供に回される。


もうひとつが、“子ども”。

教育支援、生活支援、難民救済――その名の下で集められた個人情報は、密かに適合者リストとして

管理され、ポイント制度を経由して、外資の医療投資ファンドへと流れていた。


しかも、「戸籍のある日本人の子ども」は特に高く売れる。なぜなら、国際的な移植制度において、

“出どころがはっきりしている身体”は価値が高いから。

夜。スアンは、仮設シェルターの片隅で眠る少女を見つめていた。その子の脇腹には、まだ薄く残る

手術跡。だが、本人は何も覚えていない。

「私、どこで寝てたのかな……」少女の目は、虚ろだった。


スアンは、何も言えなかった。抱きしめる手が、細かく震えていた。

「大丈夫」その言葉は、自分に言い聞かせるためのものだった。

その夜、スアンは初めて、自分が“人間の線引き”に立ち会ってしまったのだと、静かに、

そして深く理解した。それは法でも、暴力でもない。“正しさ”の皮をかぶった、“選別”の制度。

やさしさの名をした“刃物”。


 神崎慶太は――静岡、日本平の高級ホテルのスイートで、沈黙の富士を眺めていた。

背後で、教団幹部と財団代表が言う。

「富士は、選ばれた風景だ。余計なものを排除し、美だけを残した結晶」

「人も同じだ。秩序とは、選別と整理の先にある」

神崎は、何も言えなかった。

ポケットにある、娘が贈った小さなキーホルダーだけが、“本当の重さ”を持っていた。

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“生かす”という言葉が、誰かの“静かな死”と引き換えになっているなら

―― その制度は、もう倫理ではなく、演算だ。

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第6章:真実よりも信じたい幻想

 2031年、静岡・日本平。高級ホテルの最上階、スイートルームの大きな窓からは、夕暮れの富士が

霞の中に浮かんでいた。沈黙しているのに、すべてを見透かしているような輪郭。その美しさに、

神崎慶太は目をそらすことができなかった。


 手にはワイングラス。だがもう中身はない。味もしない。渇きもしない。ただ、手の中にそれが

“在る”ことだけが、彼の支えだった。

背後の重厚なドアが音もなく開いた。

入ってきたのは二人の男――ひとりは教団〈魂の解放同盟〉の幹部・李中将。もうひとりは、財団

〈恒昌国際〉の代表・張俊傑。どちらも、感情を削ぎ落としたような顔をしていた。

「富士は、沈黙の賢者のようだと思わんか?」李が、ゆっくりと語りかける。

「……選ばれた風景、ですか?」神崎の声は、かすかに震えていた。

張が続ける。

「ああ。余計なものが排除されたからこそ、美しく見える。 人も同じですよ。不要な命、過剰な欲望――それを整理することが“秩序”を生む」

テーブルの上に、音もなく分厚い書類が置かれた。表紙にはこう書かれていた。


《記憶昇天支援区域 拡大計画》


神崎の指先が、微かに震えた。

そこには彼の名前の署名が、すでに印刷されていた。

「……私は……そこまで理解していたわけじゃ……」

かすれた声で神崎が言いかけると、李の目が鋭くなった。

「理解していようがいまいが、署名した時点で“責任者”です」

「あなたの役目は、整えること。世論と政策と制度を、“滑らかに接続する”ことです」

「だが……子どもたちまで含めるのは、あまりにも……」

「移民の子だけでなく、一般家庭の娘まで、“提供対象”に――」


張が静かに微笑む。


「すべての命が平等であるという幻想は、美しいが非現実的です」「問題は、誰を“生かすか”です」

「あなたが“希望”と呼んだものは、実は“選別”の入り口でした。 でも、それでよかった。人は、

“信じたい幻想”に従うものですから」

神崎は何も言い返せなかった。


 その夜、神崎はひとりソファに座り、ポケットから小さなキーホルダーを取り出した。娘が7歳の誕生日に手作りしてくれたもの。「パパのかばんにつけてね」そう言って、少し恥ずかしそうに渡してきた日のことを、まだ覚えていた。

あのとき、守りたかったのは“家庭”だったはずだ。だが彼は、政治の世界で“国を守る”ことを選んだ。

それが正義だと、信じて疑わなかった。


 だが――その“正義”の延長線上にあるものが、子どもたちをデータで分類し、“適合対象”として売る世界だとしたら。それは本当に、「守った」と言えるのか?


 同じころ、長谷川圭一は夜の編集室で書類に目を通していた。

《宗教法人〈魂の解放同盟〉と政権与党の間に資金移動》《選挙直前、NeoMall経由で仮想通貨送金》《関連企業5社、代表理事はすべて親族・信者》

画面には、未来健康科学団地の映像が映っている。ぼやけた画質の中、白衣の男が資料を読み上げ、

神崎が深く頷く姿が捉えられていた。

「……これはもう、逃げられない」

長谷川の手元には、高野蒼一から渡されたメモがあった。

“国家の顔をした何か”と対峙するためには、制度そのものに挑まなければならない。

「信じたい幻想」の裏にあるものを、暴かなければならない。


 翌朝。神崎は再び富士を見つめていた。その稜線は、変わらず沈黙を守っている。

「……正義とは、幻想だ。幻想には、権力が宿る」

李の言葉が、胸の奥で反響する。

神崎の視線が、ゆっくりと落ちる。書類に書かれた自分の署名、その隣に、新たな項目があった。

《区域拡大承認済み》《戸籍保持者提供枠:第一段階 試行中》

娘の名前ではなかった。だが、“同じ年頃”の子どもたちのことが、どうしても頭から離れなかった。

彼は初めて、自分が“何に署名してきたのか”を理解し始めた。

その時、窓の外で雷鳴が遠くに響いた。雲が富士の頂にかかり、稲光がその輪郭をわずかに震わせた。

それはまるで、神崎の心臓を直接打ち鳴らすようだった。

幻想には、力がある。だが、それは時に、真実を押しつぶす。

神崎は、自らが築き上げてきた“善意の仮面”の裏側に、どれほど多くの「見えない犠牲」が積み上がってきたのかを、ようやく、直視しはじめていた。

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「正義」とは、信じたい幻想なのか――それとも、見たくない現実を覆い隠すための仮面なのか。

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第7章:新しい正義のかたち

 都心のモール前、照り返すアスファルトの熱気の中で、ユウトは足を止めた。視界の先にある掲示板に、神崎慶太のポスターが貼られている。

《あなたの未来を、私たちは応援します!》

白手袋、満面の笑顔、そして意味のない“希望”のコピー。その全てが、どこか壊れて見えた。

「……未来って言葉が、プロパガンダの飾りになってる」

隣のベンチに腰掛けていた男が、ぽつりとつぶやいた。

ユウトが振り向くと、そこには長谷川圭一がいた。

あの夜、“老人狩り”の現場で出会ったジャーナリスト。“種”を託してくれた男。

「……あんた、あの時の……」

「君も、まだ問い続けているようだな」

長谷川は、スマホを取り出し、ユウトに画面を見せた。そこには、未来応援ポイントの使用履歴と、

政府連携アプリのアクセスログ。

「これはもう、“支援”じゃない。“監視の入り口”だ」

ユウトは静かに頷いた。

「……俺、“応援ポイント拒否した村”で、今も生き直してます」

その言葉に、長谷川の目が細められる。

「なら、君となら、もう少し深いところまで掘れる。 本気でこの国の仕組みごと変えようとしている男がいる。紹介したい」

夕暮れのカフェ。窓際に差し込むオレンジの光。冷めたコーヒー。

そして、真剣な眼差しの若者が一人――

高野蒼一、36歳。地盤も資金も看板も持たないが、奇跡的に「聞く力」を持った人間。

「……僕は、“誰かの代弁者”になりたくない。ただ“共鳴者”でありたいんです」「現状の中で勝とうとする政治には、もう未来はない。 “誰に託すか”ではなく、“どう生きたいか”を一緒に問い直す仕組みが要るんです」

長谷川は深く頷いた。

「そう、“仕組み”だ。今のこの国を腐らせているのは、政治家個人じゃない。 制度が、“まともな人間”を排除してしまう構造になっている」

ユウトが口を開いた。「三バン――地盤、カバン、看板、ですよね」

長谷川は静かに指を立てながら話す。


「まず“地盤”。地元の後援会、既得権、しがらみ。 それがある限り、政治家は“国家”より

 “地元”のために動く」

「だから、“テーマ別選挙”にするんだ」「教育・医療・環境・テクノロジー……全国から

 誰でもそのテーマで投票できるようにする。もう、“選挙区”なんて制度に縛られる必要はない」

高野が言葉をつなぐ。

「次に、“カバン”。選挙にかかる金ですね」

「いまは、金をかけたやつが勝つ。だから、利権と癒着が生まれる」

「全員に“ベーシック選挙予算”を支給して、使える金額を平等にする。 広告費も上限を設けて、

 すべての支出をリアルタイムで公開する」

「そして最後が“看板”。」

「親が政治家、有名人、インフルエンサー…… そういう“名前”で票を取る時代は、

 終わりにしなきゃならない」

「だから、立候補者には“市民前審査”を受けさせる」

「模擬討論、対話ワークショップ、倫理的判断力テスト―― “語る力”より、“聴き、調整する力”を持っているかを問う」

ユウトは真剣に聞き入っていた。そして、小さく、だが確かに言った。

「……それ、いま一番必要だと思います。 あきらめるしかないって言われてきた若者たち、 現場で

 踏ん張ってる母親たち、夜勤で疲弊してる介護スタッフたち―― 

 みんな、“聞いてほしい”んです。“語られたい”んじゃなくて」

高野は優しく微笑んだ。

「だからこそ、“語られる政治”ではなく、“共鳴する政治”を作りたい。 “知ってる人”が偉いんじゃない。“対話できる人”こそが、未来をつなげる」

長谷川が、ゆっくりと立ち上がった。

「俺は、記者だった。でも今は、“つなぎ手”になりたい。 声なき人の声が、政策になる社会

 ―― それが、俺の次の仕事だ」


 その夜、長谷川は旧友の記者・滝沢から一通の封書を受け取った。

中には、神崎の資金ルートを裏付けるメモと、一本のUSBメモリ。送金ログ、教団との会合の記録、NeoMall広告プラットフォームとのつながり。すべてが、点と点でなく“線”として、つながり始めていた。画面の中、ぼやけた映像には、神崎が誰かの手を握りながら頷いている姿。その背景には、


あの火の鳥の紋章――〈魂の解放同盟〉。長谷川は、そっとペンを取った。


手帳にこう書く。

「幻想を脱ぐ時だ。“国家の顔をした何か”を暴くには、もう、語るだけでは足りない」

その瞬間、風がカフェのガラス窓を静かに揺らした。音は小さかったが、その揺れは確かに“始まり”の気配を含んでいた。覚醒は、もう始まっている。

********************************

“語る政治”から、“共鳴する政治”へ

――問いを捨てなかった者たちが、仕組みそのものに手をかけはじめている。

********************************


第8章:義務という名の侵食

 朝。山の稜線が静かに光を帯びはじめる。谷間からは、鳥のさえずりと沢の音が交差しながら流れてくる。

ユウトは、村の川辺で小さな焙煎機を囲んでいた。火を起こし、湧き水を沸かし、手鍋の中で豆をコトコトと炒っていく。

近所の青年がカップを受け取りながら笑う。

「……朝の香り、って感じだな」

ユウトも微笑む。都会を離れて2年。この村で、彼はようやく「息ができる場所」を見つけていた。

畑では年配の女性たちがキュウリとナスを竹かごに収穫している。保育室では若い母親が絵本を読み聞かせ、小さな子どもたちがはしゃぎ声を上げていた。

電波は弱い。信号もない。だがここには、“時間の手触り”があった。

昼前、村の集会所に一枚の新しい通知が貼り出された。


《未来応援ポイント 義務適用区域指定について》


ユウトが紙面を読み上げる。

「本制度は、全国統一の生活支援プラットフォームとして2031年7月より段階的に全地域へ適用されます。未接続自治体についても、国家インフラとの接続が確認され次第、自動的に“義務適用区域”へ移行されます」

数人の農家が通知を囲み、ざわついた声があがる。

「……支援じゃなかったんか?」

「申請しなきゃ、使えないはずじゃなかったのか?」

「勝手に接続って、どういうことや」


 ユウトは、背中に冷たい汗がにじむのを感じた。文面の裏側には、見逃せない一文があった。


※本制度接続後、当自治体に居住する住民の購買履歴、医療記録、教育指標、行動ログ等は、

 国家データ基盤へリアルタイム連携されます。

「これは、“選択”じゃない」「“同意の強要”だ」

ユウトの言葉が、場の空気をピンと張り詰めたものに変えた。

その夜、ユウトは一人で水源地へ向かった。山の奥、森の入口。そこに、見慣れない工事車両が

止まっていた。鉄杭、基礎コンクリート、仮設トイレ、ポンプ設備。“何か”が、もう始まっていた。

重機が鈍く動き、泥を掘り返している。

近づいていくと、プレートに社名が記されていた。だがそれは、日本語ではなかった。

「ShēngMìng投資有限公司」

中国系外資の名前だった。水源からの小さな流れは、濁っていた。

「……これは“始まり”だ」

ユウトは呟いた。

かつて築かれた丁寧な日々。土と水と、人の間にあった信頼。それが今、静かに削られている。

音はない。破壊もない。ただ、制度の影が、“暮らし”の奥に染み込んでいく。


翌朝――

黒いワンボックス車が数台、山道を駆け上がってきた。

「環境庁 特別監視部」「生活安全対策室」

集落の入り口には仮設バリケードが設置され、無表情の職員たちが村に雪崩れ込む。

「なんだこれは……」

「え、警察か……?」

住民たちが戸を開ける頃には、村の出入り口は封鎖されていた。

ユウトが駆けつけたとき、すでに一人の村人が連行されていた。


 水守源太――70代後半の米農家。寡黙で頑固、だが村で一番信頼されている男だった。

「環境汚染物質の不法投棄、および行政調査妨害の疑いにより、勾留します」

「待ってくれ! 源太さんがそんなことするはずがない!」

ユウトが叫ぶ。だが、職員は淡々と答えた。

「匿名通報と、未来応援ポイントの移動ログにより、不審行動が確認されました」

「……ログ? 俺たちは接続を拒否したはずだ……」

ユウトの声が震えた。

では、そのログは“誰が”提供したのか?あるいは“捏造された”のか?


村の空気が変わった。

沈黙。そして、疑心。

「昨日、源太さん“支援金の接続は拒否する”って言ってた」

「じゃあ……俺たちも?」

「誰が、通報したんや……?」

誰が味方で、誰が敵か。わからなくなった瞬間、“共同体”は内部から壊れはじめる。


 その夜。ユウトは一人、源太の畑へ向かった。

風に揺れる稲穂。そして、その間に揺れる一枚の紙切れ。

《不法作付調査中・立入禁止》赤い印字。その左下に記された団体名。

「農業基盤安定推進会議」

だが、ユウトは覚えていた。この団体の理事のひとりが、未来健康科学団地の幹部と接触していたことを。すべてが――つながった。


“農地”“エネルギー”“個人データ”“監視ログ”


そしてそれらすべてを媒介するのが、“未来応援ポイント”だった。

「これはもう、“制度”なんかじゃない」

ユウトは、紙を握りつぶした。

「これは、“静かな侵略”だ」彼は、マッチを擦った。

赤く燃え上がる火が、紙を照らし、空に舞い上がる。

それは警告ではなく――“宣誓”だった。

“この場所は、そう簡単には奪わせない”

********************************

「義務」という言葉のもとに、“暮らし”はどこまで売り渡されるのか。

それは静かに、“私たちの輪郭”を削っていく。

********************************


第9章:水が、売られる日

 その朝、風は乾いていた。山の谷間を渡る風が、村の掲示板の紙をバサリとめくった。

誰が貼ったのかもわからない。しかし、その一枚の紙は、確かに風景を変える力を持っていた。

《地域水源の「包括的利用契約」について》

ユウトは、ふとした拍子にその通知を見つけた。印刷されたフォントはあくまで優しかった。

まるで、「これは良いことですよ」と言わんばかりに。

「水道インフラの安定供給」

「災害時のバックアップ体制」

「民間パートナーシップによる効率化」

言葉は穏やかで整っていた。だが、それは“嘘の優しさ”だった。

一番下に、こう書かれていた。

「水源地の包括的利用権を外部法人に移譲することで、自治体は年間約6億円の財政改善効果を見込む」

ユウトの視線が、その下に記された企業名に止まる。

「NeoWater Holdings」

――あの名だ。〈魂の解放同盟〉と深く繋がった、外資系の水資源管理ファンド。

「……まさか、この村の“水”まで、売るつもりか……」

喉が鳴った。言葉ではなく、警鐘のような震えだった。

数日後、噂は現実となった。山奥の〈神水の沢〉。代々“命の源”と呼ばれてきた湧き水のそばに、

小型のポンプ設備が搬入されていた。役場の検査車両が出入りし、技術者がスマホを片手に地盤

調査をしている。


「正式な契約ではありません。住民説明会を予定していますので――」

役場の職員は、マニュアル通りの説明を繰り返した。

「でも、もう工事が始まってるよな」ユウトは問いただした。

「これは“準備段階”です。まだ“検討”の域を出ていません」

「だったら、なぜ掘ってる? なぜ運び込んでる? なぜ、“誰にも相談せず”に?」

言葉は交わされていたが、会話は成立していなかった。

その場に居合わせた若者――ハルが、声を上げた。

「水は“命”そのものだろ。 それを、“財源”とか“効率”で判断するのって…… それって、俺たちの暮らしを“数字”に変えるってことじゃんか!」

その声に、周囲の空気が揺れる。だが、職員たちはどこか他人事のように無表情だった。

ユウトは静かに頷いた。

「ポイントも、農業も、そして今度は“水”か…… 狙われているのは、いつも“代えのきかないもの

”ばかりだ」

その夜。村の古い集会所。囲炉裏を囲んで、十数人の村人が集まった。

炭火がパチパチと音を立てる中、誰もが何も言わなかった。目を伏せ、湯気の立つ茶碗を見つめていた。

ユウトは立ち上がり、静かに言葉を放った。

「このままじゃ、この村は“ゆっくり殺されていく”。 水も、畑も、人も、記憶も……全部、奪われる」

「俺たちは、“拒否”した。 でも、それだけじゃ足りない。“取り戻す”場所を、もう一度、作らなきゃいけないんです」

誰も、否定しなかった。だが、誰もまだ、“肯定”もしなかった。

その沈黙を破ったのは、ひとりの老婆だった。

「この村には、昔から“手間返し”って言葉があった。 誰かが井戸掘りを手伝ったら、別の日に薪割りで返す。 それが“わたしたちの通貨”だった」

「水を売って、金を得るなんて…… それは、わたしたちが“生きてきた意味”を売るようなもんじゃろ」

誰かがうなずき、誰かが小さく泣いた。

そして、誰かが言った。

「だったら……国が終わってるなら、もう一度、自分たちで“始めれば”いいんじゃねえか?」

誰かが笑い、誰かが拳を握った。

それは、怒りではなかった。悔しさでもなかった。

それは、“決意”だった。


 翌朝。湯気の立つスープを囲みながら、子どもたちが走り回っていた。

竹の器を持った母親が、ユウトに言った。

「ありがとう。昨日、ひさしぶりに……誰かと“語れた”気がする」

その言葉に、ユウトは微笑んだ。

「語り合えるって、たぶん、それだけで“国”になるんだと思います」

その日から、村では“説明される未来”ではなく、“選び直す未来”が語られ始めた。

畑も、井戸も、人と人とのつながりも。失われる前に、“自分たちで”定義し直そうという声が生まれた。

制度は押し寄せてくる。けれど、それに飲まれない“何か”が、確かに生まれていた。

火は、消えていなかった。むしろ――その夜、囲炉裏の火は、これまででいちばん大きく、静かに燃えていた。

********************************

奪われる前に、“守る”だけでは足りない

――取り戻す意志が、もう一つの“国”を立ち上げていく。

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