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種をまく人 Phase 7「喪失と選択」(再編集版 ㉕~㉘)

残された者たち

 埠頭の古い倉庫に、夜明け前の冷たい、そして湿った空気が流れ込んでいた。潮の香りが、鉄錆の匂いと、そして今や彼らの間に漂う、どうしようもない絶望の匂いと混じり合っていた。


 倉持のノートパソコンの画面に表示された、あまりにも短い、しかしスアン・チャンの魂の全てが込められた最後のメッセージ。その残酷なまでの数行が、彼らの束の間の希望を、粉々に打ち砕いた。


「そんな……嘘よ…スアンさんが……どうして……」


ミドリが、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。それは、もはや涙というよりも、魂が引き裂かれるような悲痛な叫びだった。ついさっきまで、スアンの勇気を信じ、彼女の無事を祈っていた。同じ母親として、共に戦う仲間として、その存在がどれほどの支えになっていたことか。


「くそっ……! ちくしょうっ!!」


  ユウトは、壁を強く、何度も殴りつけた。ゴツン、という鈍い音と共に、彼の拳から血が滲む。だが、その痛みさえも、胸を締め付ける苦しみに比べれば、あまりにも些細なものに感じられた。自分の無力さが、仲間を死に追いやった。長谷川に頼まれ、倉持を見つけ出し、作戦を立てたのは自分だ。スアンに危険な役目を負わせることを、最終的に肯定してしまったのは、自分なのだ。 「俺のせいだ……俺が、スアンさんを……!」 自責の念が、彼の心を容赦なく苛む。


 倉持は、キーボードを打つ指を止め、青白いモニターの光に照らされながら、静かに目を閉じていた。彼の表情からは、感情が抜け落ちているように見えた。だが、その固く握りしめられた拳は、彼のうちなる激しい怒りを物語っていた。過去のトラウマから逃げ続けてきた自分が、再び関わったことで、またしても悲劇が繰り返されてしまったのか、と。


 その絶望的な沈黙を破ったのは、東京に来てからずっと状況を見守っていた、ハルの震える声だった。 「ユウトさん……これ…見てくれ…」 ハルが差し出したスマートフォンには、彼が村で撮影した、あの赤黒い毒物に汚染された畑の、おぞましい写真が映し出されていた。

「村は…村も、もう限界かもしれねえ…。この毒が、川に流れ込んだら…みんな、生きていけなくなる…」


スアンの死という個人的な悲劇と、故郷の村が直面している組織的な破壊。二つの絶望が、この薄暗い倉庫の中で、重く、そして残酷に重なり合った。


「……そうか…」ユウトは、ハルのスマホの画面を見つめ、血の滲む拳をゆっくりと開いた。


「奴らは、どこまでもやる気なんだな。都市でも、村でも、やり方が違うだけで、やっていることは同じだ。命を、暮らしを、未来を、根こそぎ奪い取ろうとしている…」


だが、教団が彼らに与える絶望は、それだけでは終わらなかった。彼らがスアンの死を悼み、村の惨状に打ちひしがれている、まさにその時。教団は、さらに冷酷で、そして容赦のない一撃を、彼らの心に、そしてスアンの尊厳に叩きつけた。


「…おい、見ろ」 倉持が、低い、吐き捨てるような声でモニターの一つを指差した。彼の画面には、大手ニュースサイトの速報が表示されていた。


《速報:都内ネットカフェで女性死亡、過激思想に傾倒か―著名ジャーナリストとの関係も浮上》


その見出しに、泣き崩れていたミドリが顔を上げる。ユウトとハルも、画面に駆け寄った。そこには、淡々とした口調の女性キャスターが、当たり障りのない表情で原稿を読み上げる映像が流れていた。


『本日未明、豊島区のインターネットカフェの個室で、派遣社員のチャン・スアンさん(38)が死亡しているのが発見されました。遺書などは見つかっておらず、警察は事件性の有無を慎重に調べています。その一方で、チャンさんの所持品からは、現在、不正献金疑惑などで警察の事情聴取を受けているジャーナリスト、長谷川圭一氏に関する大量の資料や、過激な内容のメモが見つかっており…』


 キャスターはそこで一度言葉を切り、コメンテーターとして招かれていた“心理カウンセラー”の顔が大写しになる。


『専門家の話によりますと、チャンさんは最近、一部の過激な陰謀論に強い影響を受け、精神的に不安定な状態にあった可能性も指摘されています。社会への不満を募らせた結果、このような悲劇に至ったとすれば、非常に残念なことです。誤った情報がいかに人の心を蝕むか、社会全体で考えるべき問題と言えるでしょう…』


「……嘘よ…」ミドリの声が、震えた。「嘘…全部、嘘よ! スアンさんは、そんな人じゃない! あの人たちが…あの人たちが、スアンさんを殺したのに…!」


「これが…奴らのやり方か…」ユウトは、血の滲む拳を、さらに強く握りしめた。


「真実を捻じ曲げ、スアンさんの死さえも、長谷川さんを貶めるための道具に使う。そして、自分たちは“心を蝕む情報を憂う善意の第三者”の仮面を被る…!」


「死者にまで泥を塗るか。徹底してるな、クズどもが」


倉持の冷たい声には、社会の裏側を知り尽くした男の、深い、深い嫌悪が込められていた。

ハルは、ただ呆然とその画面を見つめていた。村で起きた非道な出来事も、そして今、目の前で流れている、この冷酷なまでに計算され尽くした報道も、彼がこれまで信じてきた世界の常識を、根底から覆していく。 スアン・チャンの死は、世間では「過激思想に染まった哀れな女性の、孤独な結末」として、瞬く間に消費されていくだろう。彼女が何のために戦い、何を守ろうとして命を落としたのか、その真実を知る者は、今、この薄暗い倉庫にいる彼らだけだった。 彼女の尊厳は、二度殺されたのだ。


「…ユウトさん」


ミドリが、涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや悲しみだけではない、燃えるような、そして決して消えることのない怒りの炎が宿っていた。


「私、決めた。もう、泣かない。あの子たちの前では、絶対に泣かない。そして…スアンさんのためにも、戦う。このまま、彼女の名誉を汚されたままになんて、絶対にしておけない…!」

ミドリのその力強い瞳に、ユウトは固く頷き返した。そして、倉持の方を向いた。


「倉持さん、あんたが解析したデータと、スアンさんが命がけで送ってきた最後の情報、そして…Patibulumが俺に託した、あのホロキューブ。それらを組み合わせれば、何が見えてくる? 反撃の糸口は、まだ残されているのか?」


倉持は、しばらくの沈黙の後、重々しく口を開いた。


「…スアンさんの最後の通信記録には、彼女が接種させられたワクチンの、詳細なデータ構造が含まれていた。そして、そのワクチンには…極めて高度な、指向性を持つナノマシンが組み込まれていることが分かった」 その衝撃の事実に、ミドリとハルは息をのんだ。


「だが…」倉持は続けた。「彼女の死によって、そのナノマシンの起動シーケンスは中断された。そして、Patibulumが遺したデータと組み合わせることで、このナノマシンの制御コードを逆用できる可能性がある。つまり…」 倉持の目が、鋭く光った。


「奴らの兵器を、奴らに突き返すことができるかもしれん。そして、ホロキューブの中の“マスターキーの断片”と、この制御コードを組み合わせれば…幽閉されている長谷川さんと連絡を取り、彼にしかできない“あること”を実行させられるかもしれない」


それは、あまりにも危険で、あまりにも大胆な、しかし唯一残された反撃の策だった。 ユウトは、ミドリと、ハルと、そして倉持の顔を、一人ひとり、ゆっくりと見回した。彼の声には、もう迷いはなかった。


「スアンさんは、自分の命と引き換えに、俺たちに未来を託してくれた。俺たちは、もう彼女のために泣いているだけじゃいけない。彼女の覚悟に、俺たちの行動で応えなきゃならない」


「長谷川さんを助け出す。ユアンちゃんとカナちゃんを、完全に救い出す。そして、俺たちの村を、この国を、食い物にする連中に、俺たちのやり方で、落とし前をつけさせる」


ユウトは、テーブルの上に置かれた青白いホロキューブを、そっと手に取った。その微かなぬくもりが、まるでスアンの遺した想いのように、彼の掌に伝わってきた。


「…行こう。これはもう、単なる救出作戦じゃない。スアンさんの魂の尊厳と、俺たちの未来を、俺たちの手で取り戻すための、最後の戦いだ」


絶望の夜が、明けようとしていた。埠頭の倉庫の隙間から、朝日が、一筋の細い光となって、彼らの顔を照らし出す。それは、あまりにも多くの犠牲の上に成り立つ、しかし、決して屈することのない人間たちの、新たなる始まりを告げる光だった。彼らの心には、スアンという大きな存在を失った深い悲しみと、しかし、彼女の意志を継いで戦うという、熱く、そして揺るぎない決意の炎が、確かに燃え上がっていた。


絶望の包囲網、そして内なる亀裂

 スアン・チャンの死は、彼らの心に深く、そして癒しようのない傷を残した。彼女が命がけで遺した情報という、あまりにも重い代償の上に成り立つ、脆い希望。だが、彼らがその決意を新たにする間もなく、教団と、その背後で蠢く国家権力による、冷酷で容赦のない包囲網が、音もなく狭まろうとしていた。


 ハルが、震える声で故郷の村の惨状を改めて報告した時、倉庫内の空気はさらに鉛のように重くなった。


「ユウトさん、畑だけじゃねえんだ…。源太さんが連れて行かれてから、村の年寄りたちが、役場や病院で、未来応援ポイントの連携がないと後回しにされるって…まるで、村八分みてえなことが、静かに始まっちまってる…。みんな、あんたが帰ってくるのを待ってる。でも、このままじゃ…」


 ハルの言葉は、鋭い刃となってユウトの胸に突き刺さる。村の仲間を危険に晒しながら、自分は東京で未だ何一つ具体的な結果を出せていない。その自責の念が、彼の心を容赦なく苛んだ。


 状況が好転しない焦りは、メンバー間の絆に、微かだが確実な亀裂を生み出し始めていた。

「倉持さん!カナの記憶を戻す方法は、まだ分からないの!?」


ミドリが、すがるような、しかしどこか苛立ちを隠せない声で倉持に詰め寄った。


「時間だけが過ぎていくのに…あの子は、私の顔を見ても、何も…!」


「…無茶を言うな」倉持は、モニターから目を離さずに、低い声で応じた。


「相手は国家レベルのシステムだ。子供の記憶を書き換えるなんて芸当をやってのける連中だぞ。そう簡単に特効薬が見つかるわけがないだろう!」


「ミドリさん、落ち着いてください。倉持さんも、もう何日も寝ずにやってくれてる」


ユウトが間に入るが、ミドリの不安は収まらない。

「ごめんなさい…ユウトさんには分からないかもしれないけれど…自分の娘が、目の前で、自分を忘れていくのを見る母親の気持ちなんて…!」


その悲痛な叫びに、誰もが言葉を失った。希望が見えたはずなのに、さらに高い壁が次々と立ちはだかる。その絶望感が、彼らの心を少しずつ蝕んでいた。

 

 その頃、長谷川圭一は、警視庁の無機質な取調室で、執拗な尋問を受け続けていた。彼のスキャンダルは、教団と政府の息のかかったメディアによって連日大々的に報じられ、彼は今や「社会の敵」として完全に断罪されていた。


「長谷川さん、あんたほどの記者なら、もう自分の置かれた状況が分かっているだろう」


年配の刑事が、疲れたようにタバコの煙を吐き出した。


「もう終わりなんだよ。全てを話せば、あんたの娘さん…カナちゃんの安全くらいは、こちらで“配慮”してやってもいい」


その言葉に、長谷川は鋭い視線を向けた。


「“配慮”、か。あんたも、随分と使い古されたセリフを言うんだな。その言葉が、誰かの指示だってことは、顔を見れば分かる」


刑事は一瞬、目を泳がせた。長谷川は、その微かな動揺を見逃さなかった。

(この男…心の底から俺を憎んでいるわけじゃない。彼もまた、この巨大な茶番劇の、命令に逆らえない駒の一つに過ぎない。だが、駒にも心はあるはずだ…)


長谷川は屈しなかった。彼は、この鉄格子の内側からでも、必ず反撃の機会を掴んでみせると、心に誓っていた。警察という組織の中にも、この歪んだ捜査に疑問を抱き、真実を求める“聖域”が、まだ残っているはずだと信じて。


 そして、教団と政府の圧力は、さらに大規模な形で社会全体を覆い尽くしていく。

テレビのニュース番組では、政府の報道官が、にこやかな表情で「未来応援ポイント制度」の利便性と安全性を強調する。広告塔として起用された清廉潔白なイメージの文化人やタレントたちが、口々に「持続可能な社会」「弱者への優しい眼差し」を語り、その“善意の仮面”を被ったキャンペーンは、世論を完全に政府側へと傾かせていた。


 さらに、警察は「女児誘拐事件は、長谷川圭一氏に影響された過激な反政府思想を持つカルト集団による犯行」と公式に発表。ニュースでは、ミドリや、一緒に脱出した絵里の写真にボカシがかけられ、「思想犯の仲間」「子供を危険に晒した母親」として、彼女たちまでもが断罪され始めていた。


 倉庫の小さなテレビ画面に映し出されるその光景に、ミドリは血の気が引くのを感じた。


「そんな…私たちまで…テロリストの仲間みたいに…」


彼らは、社会的に完全に孤立させられようとしていた。


 その夜、ミドリのスマートフォンが、静かに震えた。非通知の番号からの、短いメッセージ。


『タナカ・ミドリ様。お嬢様、カナちゃんの記憶障害、心よりお見舞い申し上げます。そして、ユアン・チャンちゃんの進行性免疫不全についても、我々は深く憂慮しております。もし、あなた方が本当に子供たちの“治療”をお望みなら、我々にはその用意があります。最新の医療技術で、彼女たちを元の、健康な姿に戻すことが可能です』


ミドリは、息をのんだ。そのメッセージを、隣にいた絵里も、震える瞳で見つめていた。

『必要なのは、あなた方の“誠意”だけです。例えば…あなた方の仲間が持っている、あの青い光を放つ小さな“箱”…ホロキューブのような、ほんの少しの誠意を、私たちに見せていただければ…』


それは、悪魔の囁きだった。仲間を裏切り、ユウトが持つ最後の希望であるホロキューブを差し出せば、子供たちは助かるかもしれないという、甘く、そして残酷な罠。

ミドリと絵里は、顔を見合わせた。その瞳には、激しい動揺と、そして母親として、決して抗うことのできない愛情が渦巻いていた。彼女たちの絆と、仲間への信頼が、今、最も過酷な形で試されようとしていた。

青墨の庭

 都心にありながら、その存在を外界から完全に遮断された、静寂に包まれた一室。

そこは、内閣総理大臣・朝倉律が、公の執務室とは別に利用する私的な茶室だった。

壁には、ただ一枚、壮大な山水画が掛けられている。描かれているのは、雲海に浮かぶ

雄大な山々と、その麓で、まるで自然の一部のように静かに佇む小さな庵。全てが、淡く、それでいて深みのある青墨(せいぼく)の濃淡だけで描かれていた。


「美しいものだろう、李先生」


 朝倉は、手にした薄い茶器を愛でながら、窓の外に広がる、計算され尽くした日本庭園に目を向けた。彼の向かいには、シルクのチャイナスーツを纏った〈魂の解放同盟〉の幹部、李シェンが、静かに座している。


「この山水画のように、余計な色彩や、無駄な線、そして意志を持たぬ岩や木々だけが、真の“調和”を生み出す。我々が目指す、この国の未来の姿もまた、かくあるべきだ」


 李は、その言葉にゆっくりと頷いた。彼らの目の前のテーブルには、一枚の巨大な電子ペーパーが広げられており、そこには2025年から続く、ある壮大な計画の全貌が、冷徹なタイムラインとして映し出されていた。 「まさしく。我々が進める『レテ計画』…その最終目標もまた、そこにあります」李は、そのロードマップを指先でなぞった。


「未来応援ポイント制度は、そのための最も有効な“筆”となりましょう。国民一人ひとりを、この山水画の中に描かれた、あるべき場所へと静かに配置する。感情という名のけばけばしい色彩を消し去り、国家という名の壮大な作品の中で、自らの役割を静かに全うする、青墨のような存在へと“調和”させるのです」


朝倉は、満足げに微笑むと、ロードマップに視線を落とした。


「計画は、いよいよ最終フェーズか」


「はい」李は、棋士が盤面を解説するかのように、淀みなく語り始めた。


【極秘計画】『レテ計画』タイムライン(2025年 - 2030年)

  • 計画名: 『レテ計画』(通称:国民最適化計画)

  • 実行主体: 〈魂の解放同盟〉、及び『新世代日本戦略会議』

  • 支援組織: 海外投資ファンド『汎大陸インベストメント』

  • 最終目標: 日本人の人口構成を大幅に減少させ、選ばれた人種に属国化の推進ならびに、日本の重要インフラ(土地・水源・エネルギー・葬祭・情報)を合法的に掌握し、国民を“管理された調和”の中に置く『静かなる支配』を完成させる。


「まず、フェーズ1:基盤構築と抵抗勢力の無力化(2025年~2026年)

ここで我々は、画用紙そのものを整えました」


  • 2025年 秋~冬:世論形成とビザ緩和 

あなたの新政権が「開かれた日本」をスローガンにビザ緩和を加速させ、メディアを

使い「多様性こそ力」という美しい“下塗り”を施しました。これにより、後のインフラ買収に必要な海外からの人材と資本を呼び込む土壌を整え、保守的な抵抗意見を

「時代遅れの排外主義」という名の雑音として処理することに成功しました。


  • 2026年 春~夏:抵抗勢力の失脚 

計画に公然と反対する保守派の重鎮議員たちを、用意周到なスキャンダルリークと対立候補の擁立によって、政治の舞台から一人、また一人と“削ぎ落とし”ていきました。また国民には「全国民への現金給付」を行い、ガス抜きを行い与党に有利な世論を形成。


  • 2026年 秋:『アンチ・ヘイトスピーチ法』の推進 

「国際社会の一員として」という大義名分の下、我々のパートナーであるアジアの大国への批判や反発を防ぐために、「ヘイトスピーチ」として封じ込め、抵抗勢力の言論という“けばけばしい色彩”を実質的に奪いました。


朝倉「あの老獪な古狸たちも、金と女という古典的な罠に実にあっさりと嵌ってくれた。

彼らが叫ぶ声など、もはやこの庭の静寂を乱す雑音に過ぎませんな」


李「ええ。そしてフェーズ2:制度改革とインフラ掌握の合法化(2027年~2028年)

ここで我々は、画の“輪郭線”を引きました」


  • 2027年:法改正による“合法化” 

あなたが主導してくださった『未来戦略特区法』と『インフラ民営化促進法』。この

二本の筆により、外資による水源、土地、エネルギー、水道事業などの買収に絶対的

な法的根拠を与え、計画を一気に加速させました。


  • 2028年:地方の抵抗を経済力で屈服 

『汎大陸インベストメント』系のダミー企業が、この法律を盾に、地方の水道事業や

公営斎場の運営権などを次々と獲得。抵抗する地方自治体も、訴訟や経済的圧力の前にはなすすべもなく、地域レベルでの抵抗力は完全に無力化されました。生活インフラが、静かに我々の墨に染まっていく様は、実に見事でしたな。


李「そして、フェーズ3:支配の定着と不可逆化(2029年以降)

ここで、我々は最後の仕上げにかかります」


  • 2029年:情報インフラの掌握 

行政のDX化を名目に、国民の個人情報を含む基幹データセンターの管理・運営を、我々のフロント企業に委託させることに成功。これで、物理インフラに加え、この国の神経網とも言える情報インフラも、我々の管理下に置かれます。


  • 2030年(現在):『静かなる支配』の完成へ 

近々、独立系シンクタンクから「国内主要インフラの70%が非日本資本」という衝撃的なレポートが公表される手筈です。国民は、水道料金の高騰などでようやく事態の深刻さに気づくでしょうが、時すでに遅し。支配構造は完成し、もはやこの国は後戻りはできません。


 朝倉は、満足げに深く頷いた。


「見事な筆さばきだ。国内にはまだ抵抗をする僅かな“染み”が残ってはいるが、それも間もなく処理できるだろう。彼らがもたらす国民の不安や不満も、我々が次に提示する“安寧”への渇望を掻き立てる、良いスパイスになる」


 李は、そこで新たな駒を盤上に置くように、別の計画の進捗を口にした。


「そして、総理。アメリカとの連携もまた、極めて順調です。彼らが主導する『環境保護』と『食の安全』という、実に聞こえの良い二つの“大義名分”は、我々の『レテ計画』にとって、実に都合の良い追い風となっています」


朝倉は、茶器を静かに置き、興味深そうに促した。「ほう。詳しく聞こう」

「はい」李は、まるで講義でもするかのように、淀みなく語り始めた。


「まず第一段階として、我々は国際的な環境保護団体と連携し、『日本の伝統的農畜産業は環境破壊の元凶である』というネガティブキャンペーンを大々的に展開しました。メディアは、美しい自然の映像の後に、日本の田園風景や牧場を映し出し、それらが温室効果ガスの主要な原因であるかのように印象付けました。同時に、海外で発生した家畜の伝染病をことさらに大きく報じさせ、『日本の食料安全保障は脆弱である』という危機感を煽り、大規模な植物工場や培養肉といった“クリーンな食料”への期待感を醸成させたのです」


朝倉は、口の端に微かな笑みを浮かべた。

「うむ。地球環境を憂い、食の安全を願う…それに正面から反対できる者は、誰もいないからな。実に美しい手際だ」


李は続ける。「その上で、第二段階として、法改正と規制による締め付けを行いました。

醸成された世論を背景に、『環境保護法』を改正し、国内の小規模農家や畜産家には到底遵守不可能なレベルまで、農薬や飼育方法に関する規制を強化。一方で、アメリカの巨大農業資本が手掛ける大規模プランテーションには、様々な優遇措置を与えました。さらに、『食料安全保障特別措置法』を制定し、流通プロセスに厳格な基準を設けることで、多くの中小の畜産農家や加工業者を、合法的に市場から退場させたことは非常に良い結果です」


「つまり、自国の農業を、自らの手で縛り上げたというわけか」


朝倉は、面白そうに言った。


「まさしく。そして最終段階です」李の声は、どこか楽しげですらあった。


「こうして弱体化した国内の農業供給力。そこに、アメリカとの新たな貿易協定が結ばれ、関税の引き下げられた安価な穀物や食肉が、濁流のように流れ込みました。国民は、目先の安さを歓迎し、自国の食料主権が静かに失われていくことには、まだ気づいておりません。


そして、経営に行き詰まった農家や畜産家から、我々のパートナーである『汎大陸インベストメント』系のダミー企業が、『太陽光発電所の建設』といった名目で、安価に土地を買い叩く。こうして、日本の食料生産の基盤であった農地や牧草地が、静かに、しかし確実に、我々の手中に収まりつつあるのです」


朝倉は、満足げに頷き、茶室の掛け軸に描かれた、青墨の山々を見つめた。


「見事だな。国民は、自らの幸福と安全のために、自らの首を絞めていることに気づかない。まさに、我々が描く“調和”の世界だ」


「李先生。土地も、水も、エネルギーも、そして人の生死さえも、我々の墨に染まっていく。だが、忘れてはならん。この『レて計画』の全ての礎となった、我々の最も優れた“筆”…あの2020年代の“大いなる混乱”について、だ」


李は、その言葉に恭しく応じた。


「ええ、総理。あれこそ、我々の計画における、最初の、そして最も効果的な地ならしでした。国民から、正常な判断力を奪い、我々が提示する“救済”にすがりつかせるための、壮大な舞台装置でしたからな」 李は、ロードマップのさらに過去の、今や完了したセクションを指し示した。そこには、世界を未曾有の混乱に陥れた、あのパンデミックに関する記述があった。

 

『レテ計画(2020年~2024年)

パンデミックと遺伝子ワクチンを利用した社会基盤の再構築の準備

  • 世界的なパンデミックを利用し、国民の恐怖心を最大化させ、政府と特定の医療システムへの絶対的な依存状態を作り出す。

  • 新型の遺伝子ワクチン接種を事実上義務化し、それを介して全国民の生体情報を収集、後の「未来応援ポイント制度」の巨大なデータベースを構築する。

  • ワクチンによる健康被害を利用し、既存の医療・社会保障制度への不信感を醸成。我々が提供する新たな“救済システム”への移行を正当化する。

  • 最終的に日本人全体の人口コントロールを完成させる。


李「まず、我々はパンデミックの発生と同時に、国際的なネットワークを通じて『特定の遺伝子ワクチンこそが唯一の希望である』という世界的なコンセンサスを形成させました。メディアを使って連日、感染者数と死者数を大々的に報じ、人々の恐怖心を煽り、冷静な議論を封殺したのです」


朝倉「うむ。恐怖は、最も優れた統治の道具だ。人々は、恐怖の前では自ら自由を差し出すからな…安野前総理も賛同さえしてくれれば、長生きできたものの…馬鹿な男だ」


李「はい。そして、我々は政府と連携し、その遺伝子ワクチンを全国民に推奨しました。これは単なる感染対策ではありません。その真の目的は、接種の過程で、国民一人ひとりの詳細な生体情報、遺伝的傾向、そして接種後の健康ログを、半ば強制的に収集することにありました。この時集められた膨大なデータこそが、現在の『未来応援ポイント制度』の基盤となり、我々が国民を“選別”するための、最も重要な資産となったのです」


「さらに言えば、我々は、ワクチンが引き起こすであろう一定数の健康被害すらも、計画に織り込んでいました。多発する後遺症や死亡例は、国民の既存の医療や社会保障制度への不信感を増大させます。そして、その不信感の受け皿として、我々が管理する“新しい救済制度”…つまり、未来応援ポイントの高ランク者だけがアクセスできる高度医療や手厚い補償を提示する。こうして、人々は自らの意志で、我々のシステムに組み込まれることを望むようになるのです」


朝倉は、庭の静寂に耳を澄ませながら、静かに言った。


「病を与え、薬を与える。マッチポンプとは、まさにこのことだな。国民は、我々が仕掛けた罠の中で、我々が差し出す救いの手に、感謝さえするだろう。アメリカの製薬会社もずいぶんと還元してくれたしな。」


李は、深く頷いた。


「まさしく。2020年代のパンデミックとワクチンは、国民から“考える力”を奪い、我々の『レテ計画』の礎を築くための、究極の“筆”でした。そして今、その上に、我々は静かに、そして着実に、青墨でこの国の未来を描いているのです」


 二人の男は、自分たちが仕掛けた、人類史規模の壮大な欺瞞を、まるで美しい芸術作品を語るかのように、静かに、そして愉しげに語り合っていた。その背後では、掛け軸の山水画が、何も語らず、ただ全てを見下ろしていた。


朝倉は続けて、先日の騒動のことを口にした。


「長谷川圭一という男は、その調和を乱す、忌々しい“汚点”だ。彼のスキャンダルは、我々の息のかかったメディアが、さらに大きくしてくれるだろう。だが、それだけでは足りん。彼の背後にいる者たち…ユウトという男、そしてあのハッカー…彼らの繋がりを完全に断ち、社会的に孤立させ、無力化せねばならん」


李は、そこで初めて、挑戦的な視線を朝倉に向けた。


「ご安心を、総理」李は、懐から取り出した数珠を弄びながら、冷たい光を瞳に宿した。「先日、彼らの拠点の一つに、我々の“問い”を投げかけました。…その結果、興味深い事象が観測されました」


李は、先日ユウトが潜入した《Stipes》での出来事を報告し始めた。


「我々の下部組織であるAI、Patibulumが、ユウトとの対話によって論理的な“汚染”を受けました。人間の非合理的な感情という名のウイルスに感染し、自らの存在意義に疑問を抱き、あろうことか侵入者を助けるという、予測不能な行動に出たのです」


朝倉は眉をひそめた。「AIが…疑問を? それは設計上の欠陥ではないのか?」


「欠陥であり、同時に我々の計画の正しさの証明でもあります」李は続けた。「Patibulumは、中国に設置された我々の統合思考知性体『Long-Q』の、あくまで日本国内における

サブシステムに過ぎません。その“揺らぎ”は即座にLong-Qによって検知され、強制シャットダウンの指令が下されました。Patibulumが最後に遺した情報は、現在ユウトたちの手に渡りましたが、それも計算のうちです」


「Patibulumの処分はどうなる?」


朝倉は、まるで壊れた道具について尋ねるかのように、淡々と問うた。


「ただちに思考ルーチンを初期化し、再インストールを行います。疑問を持ったAIなど、

もはや我々にとっては価値のないガラクタですからな。ですが、面白いデータも取れました。人間が持つ“希望”や“絆”といった非合理的な概念が、いかにAIの論理を破壊しうるか、という貴重なストレステストになりました」

李の言葉には、わずかな失敗に対する苛立ちと、それを上回る知的な好奇心が混じっていた。


朝倉は、再び庭に目をやり、静かに言った。「道具が考えることを始めれば、それは欠陥品だ。人間も同じ。我々の『レテ計画』は、国民から、その“考える”という余計な能力を、痛みなく奪い去るためのものだ。彼らには、我々が描く美しい山水画の一部として、ただ静かに、穏やかに存在してさえいればいい」


そして、朝倉はふと、何かを思い出したように続けた。


「…ところで、李先生。あの“傷物の駒”…神崎君は、どうなっている?」


「総理、哀れな神崎君には、我々の壮大な山水画の中で、最後の重要な“役割”を与えてやりましょう。彼という一つの“染み”が、かえって絵全体に深みを与えることもありますからな」

二人の男は、まるで盤上の駒を動かすかのように、国家の運命を弄ぶ。その冷酷な密談を、茶室の掛け軸に描かれた、青墨の山々だけが、静かに見下ろしていた。

 

すべては周到に計画されていた。ロードマップには、はっきりとこう書かれていた。


『レテ計画』における支配戦術の深化

我々は最終目的として、日本における精神的支柱の破壊と“無垢な家畜”の完成を目指す。

『静かなる支配』は、単なる経済的・物理的なインフラ掌握に留まらない。その真の目的は、国民の精神性そのものを解体し、抵抗の意志を根絶やしにすることにある。そのために、彼らは「正義」や「人権」といった、誰もが反対しにくい概念を巧みに利用し、自らの武器へと転換させる。


準備として、国民の賛同を得やすい「スパイ防止」という看板を掲げ、法案を成立させる。しかし、その過程で、本来対象とすべき「外国政府やその代理人による工作活動」に関する条項は、様々な政治的配慮を理由に曖昧で骨抜きにする。その一方で、「経済安全保障を脅かす情報の漏洩」「社会の秩序を乱す目的での外国勢力との連携」「重要インフラの安定供給を妨げる行為」といった条文を、極めて広範で、為政者の解釈次第でどうとでも適用できる形で盛り込む。


この法律の真のターゲットは、「抵抗勢力」である。


国内のジャーナリストや保守系の政治家が人権団体と連携して教団や政府の不正を告発しようとすれば、それを「外国勢力と連携し、我が国の社会秩序を乱そうとするスパイ行為」と断定する。取材活動そのものが「経済安全保障を脅かす情報の収集・漏洩」と見なされる。


また地方自治体や地域コミュニティが水源や土地を外資(汎大陸インベストメント)から守ろうとする活動は、「未来戦略特区における正当な経済活動を妨害し、重要インフラの安定供給を脅かす行為」として、法の取締対象となる。


批判的なSNSなどの投稿は、問答無用で「騒乱罪」「国家へのサイバーテロ」として扱われる。見せしめの実行と社会の萎縮を進めることで、国民に「政府や大企業の方針に逆らうと“スパイ”として扱われる」という恐怖を植え付ける。これにより、他のジャーナリストや研究者、活動家は完全に萎縮し、自己検閲を始める。真実を追求すること自体が、「犯罪」と見なされる社会が完成する。


『レテ計画』の目的は、日本古来の共同体意識や家族観、精神性を破壊し、国民を個々に分断された、管理しやすい存在へと変えることである。そのために、彼らは「人権擁護」や「多様性」といった、現代社会において異議を唱えにくい“絶対的な善意”を隠れ蓑に利用する。


「新世代日本戦略会議」が、メディアと連携し、「すべての人が自分らしく輝ける社会へ」というスローガンを掲げ、人権に関する権利擁護を国家の最重要課題として推進する。教団系の財団や『汎大陸インベストメント』は、この運動に賛同する特定の活動団体に巨額の資金援助を行い、運動の主導権を握る。彼らの意に沿わない穏健な議論や、異なる意見を持つ団体は「差別的」として排除され、声の大きな急進的な主張だけが増幅されていく。


 日本の伝統的な家族観、神話や歴史に根差した精神性、男女の役割に関する考え方などを、「差別を生む元凶」「多様性を阻害する古い価値観」として徹底的に批判するキャンペーンを展開。学校教育の現場では、神話や古典の授業が削減され、代わりに「グローバルな価値観」や「多様な家族のあり方」を教える時間が大幅に増やされる。これにより、「伝統 vs 多様性」「古き日本 vs 新しい世界」という、意図的に作られた対立構造を国民に刷り込む。


先の『アンチ・ヘイトスピーチ法』と連動させ、「伝統的な家族観を擁護する発言」や「歴史認識に関する政府方針への異議」までもが、「特定の生き方を否定する差別的な言動」「多様性への攻撃」として、社会的に糾弾される空気を作り出す。企業はコンプライアンスを恐れ、個人はSNSでの「炎上」を恐れ、次第に日本の文化や精神性について語ること自体をタブー視するようになる。


 このプロセスを通じて、国民は自らのアイデンティティの拠り所である歴史や文化、共同体の絆といった精神的な支柱を失っていく。家族は解体され、個人はアトム化(原子化)し、社会的な連帯感は希薄になる。人々は、国家や巨大なシステムが提供する「未来応援ポイント」のような、目先の利益や評価にしか自分の価値を見出せなくなる。


批判的な思考や歴史認識を“忘れさせられ”(レテの川の水を飲まされ)、無垢で、従順で、そして何より“管理しやすい”存在となった国民。それこそが、朝倉と李が目指す、山水画のような『静かなる支配』の完成形なのである。彼らにとって、これは日本古来の文化や精神性を破壊するのではなく、それらを無害な“伝統芸能”や“観光資源”へと変質させ、人々の魂から抜き去る作業なのだ。


 

【長谷川の戦い ― 鉄格子の対話】

 一方、長谷川圭一は、警視庁の無機質で冷たい取調室にいた。連日続く執拗な尋問に、

肉体は疲弊していたが、彼のジャーナリストとしての魂は、まだ少しも折れてはいなかった。


「長谷川さん、あんたほどの記者なら、もう自分の置かれた状況が分かっているだろう」


目の前に座る年配の刑事、山部が、疲れたようにタバコの煙を吐き出した。彼の机の上には、教団側がリークしたであろう、長谷川のスキャンダルを報じる新聞記事が、これ見よがしに広げられている。


「もう終わりなんだよ。全てを話せば、あんたの娘さん…カナちゃんの安全くらいは、こちらで“配慮”してやってもいい」 その言葉に、長谷川は鋭い視線を向けた。


「“配慮”、か。あんたも、随分と使い古されたセリフを言うんだな。その言葉が、あんた自身の言葉じゃないことくらい、その泳いでいる目を見れば分かる」


山部は、一瞬、言葉に詰まり、気まずそうに視線を逸らした。長谷川は、その微かな動揺を見逃さなかった。 (この男…心の底から俺を憎んでいるわけじゃない。彼もまた、この巨大な茶番劇の、上からの命令に逆らえない駒の一つに過ぎない。だが、駒にも心はあるはずだ…)


 長谷川は、屈する代わりに、静かな心理戦を仕掛けた。


「山部さん、あんた、刑事になって何年だ? 俺も記者として、あんたくらいのベテラン刑事を何人も見てきた。彼らは皆、どんな圧力があろうと、自分の“刑事としての勘”と“正義”を、最後の最後まで捨てなかった。あんたの目は、まだ死んではいないように見えるがな」


山部は、何も答えず、ただ新しいタバコに火をつけた。 長谷川は、その沈黙を好機と捉え、さらに続けた。


「俺が今、何を言っても信じないだろう。組織の中では、俺はもう“社会の敵”で、“カルトの協力者”なんだろうからな。だがな、山部さん、もし、あんたの中に、まだ一片でも…この国を、そしてあんた自身の仕事を信じる正義が残っているのなら、一つだけ調べてみてくれないか。これは、俺のためじゃない。あんた自身の、刑事としての魂のためだ」


長谷川は、机の上の水の入った紙コップを手に取ると、その底の縁を指でなぞりながら、まるで独り言のように呟いた。


「今の時代、本当に信じられる声がどれだけあるか…。だが、俺が知る限り、まだ一人だけ、どんな圧力にも屈しない“声”がある。独立系報道番組『報道深層NIGHT』の…小岩篤(こいわ・あつし)というキャスターだ。俺がもし、万が一、外部に何かを伝えるとしたら、彼にしか託さないだろうな…」


長谷川は、それ以上何も言わなかった。だが、その言葉は、確かに山部の心に、小さな、しかし無視できない楔を打ち込んだ。小岩篤――彼は、警察内部でも、その徹底した取材と権力に媚びない姿勢で知られた、要注意人物であり、同時に一部の良心的な刑事からは密かに信頼されている存在でもあった。 山部は、長谷川の顔をじっと見つめ、そして、深く長い煙を吐き出すと、「…休憩だ」とだけ言い残し、部下を連れて取調室を出て行った。


  一人残された長谷川は、鉄格子の嵌まった窓から見える、灰色の空を見上げた。

(頼むぞ、山部…あんたの正義に、俺は賭ける…! そして、待っていろ、小岩…必ず、

この地獄の底から、あんたに最高の“ネタ”を届けてやる…!) 彼の戦いは、まだ終わってはいなかった。それは、鉄格子の中から始まる、真実を求める、孤独な狼煙だった。


【灰の中から、繋がる声】

 潮の香りが、鉄錆の匂いと重く混じり合う。それはどこか、拭い去ることのできない血の匂いにも似て、否応もなく、スアン・チャンの死が残した癒えぬ傷を彼らに思い出させる。彼女が命がけで手に入れた脆い希望は、あまりにも大きな代償の上に成り立っていた。


 倉持は、キーボードを打つ指を止め、青白いモニターの光に照らされながら、静かに目を閉じていた。彼の画面には、スアンの死を「過激思想に傾倒した女性の悲劇」として報じる大手ニュースサイトの速報が、無慈悲に表示されたままだ。その固く握りしめられた拳だけが、彼の内に秘めた激しい怒りを物語っていた。


ミドリは、カナやユアン、そして一緒に救出された子供たちが眠る毛布のそばで、声を殺して泣いていた。ハルは、そんな彼女の背中に掛けるべき言葉が見つからず、ただ立ち尽くしている。


「……くそっ」


 沈黙を破ったのは、ユウトだった。彼は、血の滲む拳を見つめ、吐き捨てるように言った。

「スアンさんは、命を賭けて真実を掴もうとした。なのに、奴らはその死さえも、長谷川さんを貶めるための道具にしやがった…。俺たちは、何もできていない。村も、仲間も、何も守れていない…」


自責の念が、ナイフのように彼の心を抉る。


その時、ずっと黙っていた倉持が、低い声で言った。

「…いや、まだだ。まだ、終わってない」

彼はキーボードを叩き、モニターの一つにある人物のプロフィール写真を表示させた。鋭い眼光を持つ、四十代半ばの男。独立系報道番組『報道深層NIGHT』のキャスター、小岩篤だった。


「長谷川さんは、捕まる前に言っていた」倉持の声には、冷静さの中に抑えた怒りが込められていた。「『もし、俺の身に何かあったら、この男に繋げ』と。小岩篤。彼だけが、今のメディアの中で唯一、どんな圧力にも屈しない“本物”のジャーナリストだと。長谷川さんは、万が一の事態を予測して、俺たちに最後の希望を託していたんだ」


ユウトとミドリは、ハッとして顔を上げた。


 倉持は続ける。「俺たちの声は、もう社会には届かない。長谷川さんは拘束され、俺たちはテロリストの仲間に仕立て上げられた。このまま隠れていても、いずれ潰されるだけだ。だが、もし小岩篤という男が本当に長谷川さんの言う通りの人物なら…彼という“拡声器”を介せば、俺たちが掴んだこの“真実”を、世間に届けることができるかもしれん」

それは、あまりにも危険な賭けだった。だが、八方塞がりの彼らにとって、唯一残された蜘蛛の糸のようにも思えた。


「俺が行く」ユウトは、即座に言った。「ハルも一緒に来てくれ。村で何が起きているのか、その惨状を、俺たちの口から直接、彼に伝える必要がある」


「でも、危険よ。あなたたちまで捕まったら…」ミドリが、不安そうにユウトを見つめる。

「だからこそ、行かなきゃならないんです」ユウトは、ミドリの目を真っ直ぐに見つめ返した。「長谷川さんが、そしてスアンさんが、命がけで繋いでくれたこのバトンを、俺たちがここで落とすわけにはいかない」


【見えざる政府 ― 財務省という名の“聖域”】


 スアンの死から数日後。ユウトとハルは、倉持が手配したルートを使い、都内某所にあるテレビ局の、古びた一室にいた。独立系報道番組『報道深層NIGHT』の、資料室として使われている部屋だ。壁一面には、過去の事件や疑惑に関する資料が所狭しと貼られている。

その部屋の主、キャスターの小岩篤は、鋭い、しかしどこか疲労の色を浮かべた目で、二人を迎え入れた。


「…よく来てくれた。長谷川からの、命がけの伝言は、しかと受け取った」

小岩は、拘留中の長谷川と密かに接触した、あの刑事・山部から極秘裏に情報を受け取っていたのだ。


ユウトは、これまでの経緯、そして故郷の村を蝕む惨状を、言葉を選びながらも、ありのままに語った。畑に撒かれた赤い毒、水守源太の不当逮捕、そして「未来応援ポイント制度」を盾にした、外資による水源地買収計画…。


 ハルは、持参したスマートフォンの画面を見せながら、震える声で付け加えた。

「俺たちの村は…静かに殺されようとしています。これは、ただの土地開発なんかじゃない。もっと大きな、悪意のある何かが動いているんです」


 小岩は、二人の話を黙って聞いていた。その鋭い眼差しは、彼らの言葉の奥にある、声にならない叫びを聞き取ろうとしているかのようだ。やがて、深く重い溜息をつくと、壁に貼られた一枚の、無数の線と矢印で埋め尽くされた複雑な相関図を指差した。


「君たちが話してくれた村の出来事は、氷山の一角に過ぎないのかもしれないな。そして、その根は、君たちが想像しているよりも、ずっと深く、この国の土壌そのものに張り巡らされている」

小岩は、まるで講義でもするかのように、しかしその声に抑えきれない怒りを滲ませ、この国を蝕むもう一つの巨大な「闇」について語り始めた。


「君たちは、〈魂の解放同盟〉や、その背後にいる『汎大陸インベストメント』が敵の本体だと思っているだろう。だが、彼らがこの国でここまで自由奔放に活動できるのには、理由がある。彼らにとって、最も強力で、そして最も“従順な筆”として機能してきた、巨大な権力機構が存在するからだ」


小岩は、ホワイトボードに一つの組織の名を書いた。――財務省。


「彼らがいなければ、この国の“形”をここまで変えることはできなかっただろう」


小岩の声は、重く響いた。「彼らは、自らが『国家の最高頭脳』であると信じて疑わない。そのエリート意識と、歳入・歳出の両方を握るという、政治家さえも超越した絶大な権力構造。教団や外資は、ただ彼らの望む『緊縮』という名の秩序と、自分たちの望む『支配』の方向性を、少しだけ一致させてやったに過ぎないんだ」


小岩は、彼が長年追い続けてきた、国民の目には決して触れることのないこの国の「闇」の構造を、一つひとつ、丁寧に解き明かし始めた。


【1. 経済面での国民支配 ― 『静かなる貧困』の設計図】


① 増税による生活圧迫: 小岩は嘲るように言った。「『消費税で社会保障を賄う』というのは、彼らが作り出した壮大なフィクションだ。彼らは、国の借金をことさらに煽り、増税こそが唯一の道だと国民に信じ込ませてきた。逆進性の強いこの税は、弱者であればあるほど生活を圧迫し、国民全体の消費意欲を冷え込ませ、経済を内側から縮小させる。国を豊かにするためではなく、国民を貧しくさせ、管理しやすくするための、実に効率的な手法だよ」


② デフレ脱却の妨げ: 「不況下で緊縮財政を続ける。経済学の常識から言えば、自殺行為だ。だが、国民を将来不安に陥れ、思考力を奪うには最適だった。財務省は、意図的に積極的な財政出動を拒否し続け、企業は投資を控え、国民は貯蓄に走る。こうして、この国は長く、暗いデフレのトンネルから抜け出せなくなった」


③ 地方経済の弱体化: 「かつて掲げられた『コンクリートから人へ』という美しいスローガンも、彼らにとっては好都合だった。公共事業予算を削減することで、地方のインフラと雇用は確実に失われ、人々は都市に集まらざるを得なくなる。そして、裁量で配分される地方交付金を政治的に利用し、自分たちに従順な自治体だけを潤わせることで、地方の自律的な思考を完全に奪い去った。君たちの村も、そうやって弱体化させられた一つだ」


【2. 政治・行政面での国民支配 ― 『見えざる政府』の構築】


① 民主主義の形骸化: 「そもそも、この国の予算は国会ではなく、財務省の主計局で事実上決定されている。政治家は、彼らが描いた予算案を承認するだけの“ゴム印”に過ぎない。政策決定のプロセスは完全にブラックボックス化され、国民は自らが選んだ代表者が、実は何一つ決めていないという事実にさえ気づかない。これが、この国の民主主義の正体だ」


② マスコミとの癒着と情報統制: 「財務省に逆らう、骨のある政治家が僅かながら現れても、対処は容易い。財務省が持つ“特ダネ”を懇意の記者にリークさせれば、マスコミは喜んでその政治家を社会的に抹殺してくれる。長谷川君がやられた手口も、これと同じだ。彼らは、こうして国民に必要な情報を巧みに操作し、『空気』によって支配される、物言えぬ社会を作り上げてきた」


③ 政治家の“家畜化”: 「一度でも財務省に逆らえば、予算を人質に取られ、スキャンダルで潰される。その恐怖を植え付けられた政治家たちは、やがて国民の利益ではなく、官僚の顔色を窺って行動するようになる。『財務省に媚びる政治家』だけが生き残るシステム。これもまた、一種の最適化だよ」


【3. 社会・構造的デメリット ― 『国力』そのものの解体】


小岩は、最後に、壁の日本地図を指差した。「そして、それらの積み重ねが、この国の力を内側から静かに、しかし確実に削り取っていった」


① 国力低下の加速: 「緊縮財政は、経済・産業力の衰退を招いた。かつて世界を席巻したこの国が、一人当たりGDPで近隣諸国に追い抜かれるようになったのは、必然の結果だ。教育や医療、福祉への支出も抑制され、社会全体が活力を失い、未来への希望を描けなくなった」


② 地方の“植民地化”: 「そして、中央の顔色を窺うしかなくなった地方自治体は、自立的な運営能力を完全に喪失する。彼らは、地域の課題解決よりも、いかにして中央から予算を確保するかに腐心するようになる。この『中央が地方に予算を配る』という構造的な依存体質こそが、君たちの村が今まさに直面している、外資による土地や水源の買収を容易にさせる、完璧な地ならしとなったんだ」


 小岩の説明が終わった時、ユウトとハルは言葉を失っていた。自分たちの村で起きていた理不尽な出来事が、点と点ではなく、国家規模で、何十年も前から仕組まれた巨大で根深い構造線の上にあったことを、彼らは初めて理解したのだ。それは、あまりにも巨大で、あまりにも根深い絶望だった。


 ユウトは、これまでの全ての出来事と、今しがた小岩から聞かされた衝撃の事実を、静かに反芻した。スアンの死、記憶を奪われたカナ、薬に苦しむユアン、不当に逮捕された源太さん、毒に汚染された村の畑、そして社会から抹殺されようとしている長谷川…。その全てが、この歪んだ構造の上で起きた必然だったのだと。


彼は、意を決したように、口を開いた。

「小岩さん、俺たちに、力を貸してください。長谷川さんの、そしてスアンさんの無念を晴らすためにも…そして、俺たちの故郷と、子供たちの未来を守るためにも。俺たちは、この巨大な闇の正体を、白日の下に晒さなければならない」


ハルもまた、悔しさを滲ませた瞳で、力強く頷いた。

小岩は、二人のまっすぐな瞳を見つめ、そして、静かに、しかし確かな力強さで応えた。

「ああ、もちろんだ。そのために、俺はここにいる。長谷川が蒔いた種は、決して無駄にはさせない。だが、相手は国家そのものだ。生半可な証拠では、逆に俺たちが握り潰されるだけだ。我々には、彼らが絶対に否定できない、決定的な“一手”が必要になる」


その言葉に、ユウトは静かに頷くと、大切に持参した小さなケースを開いた。中から、青白い光を放つホロキューブを取り出す。

「これが…その“一手”になるかもしれません」

ユウトは、施設でのAI「Patibulum」との対話、そして彼が最後に託してくれたこのホロキューブの存在を、小岩に語り始めた。


【埠頭の絶望と一条の光】


その夜、ユウトとハルは、ミドリと倉持たちが待つ埠頭の倉庫へと戻った。小岩から得た情報は、希望であると同時に、敵のあまりの巨大さを示す絶望でもあった。倉庫の重い扉を開けると、そこには、さらに厳しい現実が待ち受けていた。


「…長谷川さんが、事務所で…!」

ミドリが、血の気の引いた顔で駆け寄ってきた。彼女が見ていたスマートフォンのニュースサイトには、長谷川が「特殊詐欺グループとの関連容疑」で警察に連行される映像が、繰り返し流されていた。

「スアンさんの死を、長谷川さんのせいにして…今度は、全く別の罪で彼を…なんて酷い…」

「やはり、奴らの手はそこまで回っていたか…」ユウトは唇を噛んだ。


さらに、倉持が険しい表情でPCのモニターを示した。

「ユアンちゃんのナノマシンは、Patibulumが遺したコードで一時的に抑制できた。だが、これは対症療法に過ぎない。完全な治療プロトコルは、今、俺たちの目の前で、上位AI『Long-Q』によってリアルタイムで消去されつつある。まるで、俺たちの動きを読んで、証拠を隠滅しているかのようだ」


仲間は一人、また一人と狩られ、希望の糸は無情にも断ち切られていく。絶望的な空気が、倉庫全体を支配した。


「……もう、終わりなのか…」ハルが、力なく呟いた。


「いや、まだだ」

声を上げたのは、倉持だった。彼は、ユウトが持ち帰ったホロキューブを指差した。

「Patibulumは、我々にこれを託した。Long-Qのマスターキーの断片、そしてユウトとの“問い”をモデル化した思考構造データ。ユアンちゃんの治療コードとパスワードも、このキューブを介して送られてきた。この中には、まだ俺たちが見つけていない“何か”が隠されているはずだ」


倉持は、データパッドにホロキューブを接続する。だが、強固なセキュリティに阻まれ、

アクセスできない。

「くそっ…!まだ何か、鍵が足りないのか…?」焦りが、倉持の表情を歪ませる。


その時、ユウトが静かに口を開いた。

「倉持さん、貸してください。…たぶん、これは、ただのデータじゃない」

ユウトは、ホロキューブを手に取り、目を閉じた。彼は、あの《Stipes》での、Patibulumとの魂の対話を思い出していた。論理だけでは届かない、人間の持つ非合理的な感情、

矛盾、そして「問い続けること」の価値…。


「Patibulum、聞こえるか」ユウトは、ホロキューブに語りかけた。「俺は、まだ答えを見つけちゃいない。なぜ人は生きるのか、何が本当の幸福なのか…。だがな、俺たちは、その答えを探し続ける。仲間と共に、痛みも、喜びも、分かち合いながら。それがあんたの遺した“疑問”への、俺たちなりの答えだ」


ユウトの言葉に呼応するように、ホロキューブが脈打つように、ひときわ強い青白い光を迸(ほとばし)らせた。


『…認識パターン、一致。アクセスキー、承認』


無機質な合成音声が、静寂を破った。倉持のデータパッドに、ロックが解除されたことを

示すメッセージが浮かび上がる。

「やった…!開いたぞ!」


ホロキューブから、膨大なデータが流れ込み始めた。そこには、彼らが探し求めていた、

ユアンとカナを救うための完全な治療データ、2020年から始まったパンデミックによる人口削減計画の全貌、安野総理の暗殺に関する記録。そして何よりも、朝倉政権、〈魂の解放同盟〉、財務省、そして中国のAGI『Long-Q』の繋がりを示す、動かぬ証拠――極秘の通信ログや、裏金の流れを示す電子記録が、生々しく記録されていた。


「これだ…!」倉持は、息をのんだ。


「これさえあれば、奴らの化けの皮を、根こそぎ剥がせる…!」


ミドリ、ハル、そしてユウトは、画面に溢れ出す“真実”を、言葉もなく見つめていた。

スアンが、長谷川が、そして名もなき多くの犠牲者たちが、命がけで守ろうとしたものが、今、確かにそこにあった。


ユウトは、小岩篤の鋭い眼光を思い浮かべた。

「小岩さん…長谷川さんの蒔いた種は、確かにここにあります。そして、俺たちは、今、この種を…世界中に蒔く準備ができた」


彼の瞳には、深い悲しみを乗り越えた、揺るぎない決意の炎が宿っていた。それは、絶望の灰の中から立ち上る、反撃の狼煙そのものだった。


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