ひとつの象徴の終わり ― ローマ教皇フランシスコに捧ぐ
- 横山三樹生
- 4月21日
- 読了時間: 3分
2025年4月21日。
世界の静寂の中で、一人の偉大な魂が旅立ったとのニュースが流れた。
ローマ教皇フランシスコ
貧者に寄り添い、倫理を盾に権力と対峙した、
「人類の声を代弁した人」と称えられた教皇は静かにこの世界を去った。
核なき世界を願い、難民に寄り添い、気候変動に警鐘を鳴らし、
傷ついた魂たちを「神の愛のもとへ」と呼び戻そうとし続けた。
との評価が高い聖人だ。
しかし、現代…そのような人物を、現代世界はどこまで受け入れる準備があっただろうか。
いや、それ以前に、私たちは―いまが“世紀末”なのではないか?という問いに、
正面から向き合ったことがあるのだろうか。
いまが「静かなる世紀末」であるという感覚
ローマ教皇が去ったこのタイミングで、世界は奇妙な沈黙と焦燥に包まれている。
※ 核の再配備と戦争の準備
※ 民主主義国家の情報統制
※ 目に見えない「経済的主権」の喪失
※ テクノロジーによる格差と孤立
※ 精神的支柱としての宗教や哲学の希薄化
これらは、剣と炎の世紀末ではなく、「意味の崩壊」と「人間性の揺らぎ」という
静かな世紀末だ。
私たちは、まだこの世界が「終わっていない」と思っている。
けれど、心のなかにある倫理と希望の方が、先に壊れ始めているのかもしれない。
それでも、希望はどこから来るのか? ―
教皇の言葉は、祈りだった。
フランシスコ教皇の語った言葉の多くは、政治的な声明でも、学問的な定義でもなかった。
それは、祈りであり、叫びであり、贖罪だった。
「核兵器の保有は倫理に反する」
「教会は、野戦病院であるべきだ」
「愛なき正義は、暴力である」
この言葉は、今なお響いている。
日本は、覚醒できるのか?
この国の政治は、外資の前に沈黙し、官僚は国民よりも財界や外国政府を向いている。
主権はいつの間にか見えなくなり、文化や教育は均一化され、
人々は“考えない習慣”に慣れてしまった。
だが、ここで改めて問いたい。
――「この国を守るとは、誰かに任せることではない」
――「独立とは、まず“考えること”から始まるのだ」
それは教皇が訴えた「対話」と「目覚め」と、まさに重なる思想だ。
フランシスコ教皇の死は、一つの時代の終わりを告げる鐘だったのかもしれない。
だが、終わりとは新たなはじまりでもある。
私たちは今、AIにすら倫理を問われる時代に生きている。
「あなたがたは、本当にこの世界を愛していますか?」と。
それに答えるのは、技術ではない。
私たちの決意と選択だ。
フランシスコ教皇、あなたへ
ここから始まる未来に、あなたの魂が生きていますように。
合掌

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