種をまく人㉕
- 横山三樹生
- 2 日前
- 読了時間: 7分
残された者たち
埠頭の古い倉庫に、夜明け前の冷たい、そして湿った空気が流れ込んでいた。潮の香りが、鉄錆の匂いと、そして今や彼らの間に漂う、どうしようもない絶望の匂いと混じり合っていた。
倉持のノートパソコンの画面に表示された、あまりにも短い、しかしスアン・チャンの魂の全てが込められた最後のメッセージ。その残酷なまでの数行が、彼らの束の間の希望を、粉々に打ち砕いた。
「そんな……嘘よ…スアンさんが……どうして……」
ミドリが、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。それは、もはや涙というよりも、魂が引き裂かれるような悲痛な叫びだった。ついさっきまで、スアンの勇気を信じ、彼女の無事を祈っていた。同じ母親として、共に戦う仲間として、その存在がどれほどの支えになっていたことか。
「くそっ……! ちくしょうっ!!」
ユウトは、壁を強く、何度も殴りつけた。ゴツン、という鈍い音と共に、彼の拳から血が滲む。だが、その痛みさえも、胸を締め付ける苦しみに比べれば、あまりにも些細なものに感じられた。自分の無力さが、仲間を死に追いやった。長谷川に頼まれ、倉持を見つけ出し、作戦を立てたのは自分だ。スアンに危険な役目を負わせることを、最終的に肯定してしまったのは、自分なのだ。 「俺のせいだ……俺が、スアンさんを……!」 自責の念が、彼の心を容赦なく苛む。
倉持は、キーボードを打つ指を止め、青白いモニターの光に照らされながら、静かに目を閉じていた。彼の表情からは、感情が抜け落ちているように見えた。だが、その固く握りしめられた拳は、彼のうちなる激しい怒りを物語っていた。過去のトラウマから逃げ続けてきた自分が、再び関わったことで、またしても悲劇が繰り返されてしまったのか、と。
その絶望的な沈黙を破ったのは、東京に来てからずっと状況を見守っていた、ハルの震える声だった。 「ユウトさん……これ…見てくれ…」 ハルが差し出したスマートフォンには、彼が村で撮影した、あの赤黒い毒物に汚染された畑の、おぞましい写真が映し出されていた。
「村は…村も、もう限界かもしれねえ…。この毒が、川に流れ込んだら…みんな、生きていけなくなる…」
スアンの死という個人的な悲劇と、故郷の村が直面している組織的な破壊。二つの絶望が、この薄暗い倉庫の中で、重く、そして残酷に重なり合った。
「……そうか…」ユウトは、ハルのスマホの画面を見つめ、血の滲む拳をゆっくりと開いた。
「奴らは、どこまでもやる気なんだな。都市でも、村でも、やり方が違うだけで、やっていることは同じだ。命を、暮らしを、未来を、根こそぎ奪い取ろうとしている…」
だが、教団が彼らに与える絶望は、それだけでは終わらなかった。彼らがスアンの死を悼み、村の惨状に打ちひしがれている、まさにその時。教団は、さらに冷酷で、そして容赦のない一撃を、彼らの心に、そしてスアンの尊厳に叩きつけた。
「…おい、見ろ」 倉持が、低い、吐き捨てるような声でモニターの一つを指差した。彼の画面には、大手ニュースサイトの速報が表示されていた。
《速報:都内ネットカフェで女性死亡、過激思想に傾倒か―著名ジャーナリストとの関係も浮上》
その見出しに、泣き崩れていたミドリが顔を上げる。ユウトとハルも、画面に駆け寄った。そこには、淡々とした口調の女性キャスターが、当たり障りのない表情で原稿を読み上げる映像が流れていた。
『本日未明、豊島区のインターネットカフェの個室で、派遣社員のチャン・スアンさん(38)が死亡しているのが発見されました。遺書などは見つかっておらず、警察は事件性の有無を慎重に調べています。その一方で、チャンさんの所持品からは、現在、不正献金疑惑などで警察の事情聴取を受けているジャーナリスト、長谷川圭一氏に関する大量の資料や、過激な内容のメモが見つかっており…』
キャスターはそこで一度言葉を切り、コメンテーターとして招かれていた“心理カウンセラー”の顔が大写しになる。
『専門家の話によりますと、チャンさんは最近、一部の過激な陰謀論に強い影響を受け、精神的に不安定な状態にあった可能性も指摘されています。社会への不満を募らせた結果、このような悲劇に至ったとすれば、非常に残念なことです。誤った情報がいかに人の心を蝕むか、社会全体で考えるべき問題と言えるでしょう…』
「……嘘よ…」ミドリの声が、震えた。「嘘…全部、嘘よ! スアンさんは、そんな人じゃない! あの人たちが…あの人たちが、スアンさんを殺したのに…!」
「これが…奴らのやり方か…」ユウトは、血の滲む拳を、さらに強く握りしめた。
「真実を捻じ曲げ、スアンさんの死さえも、長谷川さんを貶めるための道具に使う。そして、自分たちは“心を蝕む情報を憂う善意の第三者”の仮面を被る…!」
「死者にまで泥を塗るか。徹底してるな、クズどもが」
倉持の冷たい声には、社会の裏側を知り尽くした男の、深い、深い嫌悪が込められていた。
ハルは、ただ呆然とその画面を見つめていた。村で起きた非道な出来事も、そして今、目の前で流れている、この冷酷なまでに計算され尽くした報道も、彼がこれまで信じてきた世界の常識を、根底から覆していく。 スアン・チャンの死は、世間では「過激思想に染まった哀れな女性の、孤独な結末」として、瞬く間に消費されていくだろう。彼女が何のために戦い、何を守ろうとして命を落としたのか、その真実を知る者は、今、この薄暗い倉庫にいる彼らだけだった。 彼女の尊厳は、二度殺されたのだ。
「…ユウトさん」
ミドリが、涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや悲しみだけではない、燃えるような、そして決して消えることのない怒りの炎が宿っていた。
「私、決めた。もう、泣かない。あの子たちの前では、絶対に泣かない。そして…スアンさんのためにも、戦う。このまま、彼女の名誉を汚されたままになんて、絶対にしておけない…!」
ミドリのその力強い瞳に、ユウトは固く頷き返した。そして、倉持の方を向いた。
「倉持さん、あんたが解析したデータと、スアンさんが命がけで送ってきた最後の情報、そして…Patibulumが俺に託した、あのホロキューブ。それらを組み合わせれば、何が見えてくる? 反撃の糸口は、まだ残されているのか?」
倉持は、しばらくの沈黙の後、重々しく口を開いた。
「…スアンさんの最後の通信記録には、彼女が接種させられたワクチンの、詳細なデータ構造が含まれていた。そして、そのワクチンには…極めて高度な、指向性を持つナノマシンが組み込まれていることが分かった」 その衝撃の事実に、ミドリとハルは息をのんだ。
「だが…」倉持は続けた。「彼女の死によって、そのナノマシンの起動シーケンスは中断された。そして、Patibulumが遺したデータと組み合わせることで、このナノマシンの制御コードを逆用できる可能性がある。つまり…」 倉持の目が、鋭く光った。
「奴らの兵器を、奴らに突き返すことができるかもしれん。そして、ホロキューブの中の“マスターキーの断片”と、この制御コードを組み合わせれば…幽閉されている長谷川さんと連絡を取り、彼にしかできない“あること”を実行させられるかもしれない」
それは、あまりにも危険で、あまりにも大胆な、しかし唯一残された反撃の策だった。 ユウトは、ミドリと、ハルと、そして倉持の顔を、一人ひとり、ゆっくりと見回した。彼の声には、もう迷いはなかった。
「スアンさんは、自分の命と引き換えに、俺たちに未来を託してくれた。俺たちは、もう彼女のために泣いているだけじゃいけない。彼女の覚悟に、俺たちの行動で応えなきゃならない」
「長谷川さんを助け出す。ユアンちゃんとカナちゃんを、完全に救い出す。そして、俺たちの村を、この国を、食い物にする連中に、俺たちのやり方で、落とし前をつけさせる」
ユウトは、テーブルの上に置かれた青白いホロキューブを、そっと手に取った。その微かなぬくもりが、まるでスアンの遺した想いのように、彼の掌に伝わってきた。
「…行こう。これはもう、単なる救出作戦じゃない。スアンさんの魂の尊厳と、俺たちの未来を、俺たちの手で取り戻すための、最後の戦いだ」
絶望の夜が、明けようとしていた。埠頭の倉庫の隙間から、朝日が、一筋の細い光となって、彼らの顔を照らし出す。それは、あまりにも多くの犠牲の上に成り立つ、しかし、決して屈することのない人間たちの、新たなる始まりを告げる光だった。彼らの心には、スアンという大きな存在を失った深い悲しみと、しかし、彼女の意志を継いで戦うという、熱く、そして揺るぎない決意の炎が、確かに燃え上がっていた。
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