種をまく人㉛
- 横山三樹生

- 6月25日
- 読了時間: 5分
二つの戦場
有坂のクリニックは、森閑とした空気に包まれていたが、その内部は二つの静かな戦場と化していた。
一つは、治療室。 有坂が子供たちのバイタルを監視し、必要な投薬を行う傍らで、倉持健はノートパソコンの画面に没頭していた。彼の指は、まるで別の生き物のようにキーボード上を舞い、複雑なコードの壁を次々と構築していく。
「…どうだ、倉持君」有坂が、額の汗を拭いながら尋ねる。「ユアン君のナノマシンは、君のプログラムで何とか抑制できている。だが、カナ君の記憶は…」 「分かっています」倉持は、モニターから目を離さずに答えた。「Patibulumのデータは、あくまで記憶野への“地図”に過ぎない。ロックされた扉を開けるには、物理的な鍵とは別の…もっと情緒的なトリガーが必要だ。ミドリさんの声、写真、あるいは…彼女が読んで聞かせた物語の、特定の一節とかな」
だが、それよりも優先すべき問題があった。治療プロセスで子供たちのナノマシンに干渉する際、どうしても微弱なエネルギー信号が発生してしまう。それは、闇夜に灯る一本のマッチのように、敵にとっては格好の標的だった。倉持は、その信号を偽装し、全く別の場所から発信されているかのように見せかけるための「デジタル・ゴースト」の構築に、全神経を集中させていた。それは、教団の誇る追跡システムとの、息詰まるチェスだった。一手でも間違えれば、チェックメイトだ。
もう一つの戦場は、警視庁の取調室。 ミドリは、鉄格子の内側で、静かな抵抗を続けていた。彼女は、倉持たちが逃げる時間を稼ぐため、傷害の容疑をすべて自らが被るという、悲しい嘘をつき続けていた。
「ですから、私がやりました。彼が、仲間を裏切ろうとしたから…」
彼女の前に座る山部刑事は、その言葉を信じてはいなかった。だが、彼女の瞳の奥にある、何かを守ろうとする強い意志に、刑事としての長年の勘が警鐘を鳴らしていた。この事件の裏には、自分が触れてはならない、巨大な闇がある、と。
悪魔の契約
一方、別の取調室では、絵里が悪魔に魂を売り渡そうとしていた。 公安部の影山と名乗る男は、彼女の罪悪感を巧みに利用し、仲間たちへの不信感を植え付け、そして「救済」という名の毒を注ぎ続けた。
「あなたは被害者だ。倉持という危険なハッカーに、娘さんを“誘拐”された…」
「我々は、あなたの娘さんを“救出”したい。そのためには、あなたの協力が必要なのです」
絵里の心は、すでに限界だった。ハルを傷つけてしまった後悔と、娘の安否への不安。その精神的な弱みに、影山の言葉は甘く、そして抗いようもなく染み込んでいく。倉持たちが示してくれた希望は「偽物」で、目の前の男が差し伸べる手こそが「真実」なのだと、彼女は信じ始めていた。
「…何か、どんな些細なことでもいい。倉持について、知っていることはありませんか? 昔の仲間、彼が信頼している人物…」
絵里は、必死で記憶を手繰り寄せた。そして、倉庫で倉持が一度だけ漏らした言葉を思い出す。
「……昔…ある医療システムのセキュリティ開発で、世話になった医者がいる、と…」 「名前は」影山の目が、鋭く光った。 「たしか……アリサカ…と…」
その名前を口にした瞬間、絵里は、もう後戻りできない川を渡ってしまったことを、まだ理解していなかった。彼女は、娘を救うための「誠意」を示したのだと、固く信じていた。
亀裂
「ミドリさんを、助けに行く」
有坂のクリニックに駆けつけたユウトは、倉持にそう言い放った。その瞳には、かつての穏やかさはなく、友を傷つけられ、仲間を奪われた者の、硬質な光だけが宿っていた。
「正気か?」倉持は、モニターから顔を上げ、吐き捨てるように言った。「俺が今、何をしているか分かるか? 敵の追跡を振り切るために、1秒単位でデジタル・ゴーストを書き換えてるんだ。ここで下手に動けば、俺たちも、子供たちも、一巻の終わりだぞ」 「じゃあ、ミドリさんを見捨てろって言うのか!」ユウトの声が荒くなる。「彼女は、あんたを、子供たちを逃がすために、自ら捕まったんだ! その『願い』を、あんたは踏みにじるつもりか!」 「ミドリさんは、そのリスクを覚悟の上だったはずだ! 今、俺が果たすべき約束は、子供たちの治療を完遂させることだ! それが、彼女の覚悟に応える、唯一の方法だろうが!」
二人の視線が、火花を散らす。子供たちの安全を最優先する、倉持の現実的な判断。仲間一人も見捨てないと誓う、ユウトの理想論。どちらも正しく、そして、どちらも譲れない想い。そのすれ違いが、二人の間に深い亀裂を生んだ。
だが、その激しい口論は、突如として鳴り響いたけたたましいアラーム音によって中断された。
「……!」
倉持の顔から、血の気が引いた。彼は、信じられないものを見るかのように、モニターのログを凝視している。
「…まずい…まずいぞ、ユウトッ!」 「どうしたんだ!」 「敵のシステムが、動いた。だが、これは広範囲の索敵じゃない…医療関係者のデータベースを、ピンポイントで検索している。検索ワードは…」
倉持の指が、震えていた。
「『アリサカ』『クリニック』だ…。奴らは、このクリニックの院長の名前を、掴んでやがる…!」
ユウトも、その言葉の意味を瞬時に理解した。この名前を知る者は、ごく僅か。
ミドリは口を割らない。ならば、残るは――。
「…絵里さんが…話したのか…」
二人の間の亀裂は、一瞬にして消え失せた。それよりも遥かに大きく、そして冷たい絶望が、二人を包み込む。敵はもう、闇雲に彼らを追っているのではない。明確な殺意を持って、この場所へ、一直線に向かってきている。
倉持は、即座に機器のシャットダウンを開始した。「有坂先生に知らせろ! もうここにはいられない! 全員、逃げるぞ!」
ユウトは、眠る子供たちを抱きかかえる準備をしながら、固く奥歯を噛み締めた。 裏切りによってもたらされた、絶対的な危機。 遺された者たちの戦いは、今、再び振り出しに戻されようとしていた。いや、それ以下の、絶望的な状況へと。





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