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種をまく人㉜

狩りの始まり

「『有坂』だ…。奴らは、このクリニックの院長の名前を、掴んでやがる…!」


 倉持の絶叫が、有坂のクリニックの静寂を切り裂いた。ユウトも、その言葉の意味を瞬時に理解した。絵里が話したのだ。仲間だと思っていた母親の、絶望に満ちた裏切り。


二人の間の亀裂は、一瞬にして消え失せた。それよりも遥かに大きく、そして冷たい絶望が、二人を包み込む。敵はもう、闇雲に彼らを追っているのではない。明確な殺意を持って、この場所へ、一直線に向かってきている。


「倉持君、落ち着け!」


白衣のまま治療室から飛び出してきた有坂が、倉持の肩を掴んだ。彼は、倉持のただならぬ様子から、全てを察していた。


「子供たちの治療は中断できない。だが、ここにいては全滅だ。…ユウト君、君は運転できるな。裏口に、古い医療用の搬送車がある。私が時間を稼ぐ。その間に、子供たちと倉持君を連れてここから逃げろ!」

「先生、あなたも一緒に!」ユウトが叫ぶ。

「馬鹿を言え。私が残ってデータを破壊し、奴らの足止めをする。これは、私自身の戦いだ」有坂の目は、穏やかだが、覚悟を決めた者の光を宿していた。「倉持、このポータブルユニットを持っていけ。最低限の生命維持と、ナノマシンの抑制は可能だ。だが、安定した電源がなければ、もって数時間だぞ!」


 倉持は、有坂から託された機材をバッグに詰め込みながら、鬼の形相でノートパソコンを操作する。敵の追跡を振り切るための、最後の悪あがき。デジタル・ゴーストを、ネットの海に放つ。


「ユウト、行くぞ!」


ユウトは、まず眠り続けるカナと絵里の娘を抱きかかえ、搬送車へと運んだ。最後に、多くのチューブに繋がれたユアンを、有坂の手を借りて慎重に移す。その小さな体の、あまりの軽さが、ユウトの胸を締め付けた。


エンジンが唸りを上げ、搬送車がクリニックの森から滑り出す。バックミラーには、クリニックの玄関に一人立ち、静かに彼らを見送る有坂の姿が見えた。それが、ユウトたちが彼の姿を見た、最後になった。


デジタルの追跡網

 搬送車の後部座席は、さながら野戦病院だった。倉持は、ポータブルユニットとPCを接続し、子供たちのバイタルを監視しながら、同時に教団の追跡システムとのサイバー戦を繰り広げていた。


「くそっ…!早い!」倉持が悪態をつく。「奴ら、都内のNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)の全データにアクセスしてやがる!俺が偽装ナンバーのデータを流しても、Long-Qの予測アルゴリズムが、瞬時に候補車両を絞り込んでくる!」


 モニターには、都内の地図と、猛烈な勢いで迫ってくる複数の赤いアイコンが表示されていた。それは、教団の追跡部隊だった。


「ユウト、次の交差点を右だ! その先、監視カメラの死角になっている路地がある!」

「分かった!」


ユウトは、必死でハンドルを切る。車体が大きく揺れ、後部座席で眠っていたカナが、不安げなうめき声を上げた。


「ママ…どこ…?」


記憶を失ってもなお、母親を求めるそのか細い声に、ユウトは奥歯を強く噛み締めた。

(必ず、助け出す。ミドリさん…あなたの娘さんは、俺が必ず…!)


だが、敵の追跡は執拗だった。路地を抜けた瞬間、後方から黒いセダンが猛スピードで追突してくる。


「まずい、物理的に追いつかれた!」


ユウトはアクセルを底まで踏み込み、対向車線へと飛び出した。クラクションと怒号の嵐の中を、紙一重ですり抜けていく。セダンは追跡を諦めたかのように見えたが、倉持のモニターが、非情な警告を発した。


「奴ら、ドローンを飛ばしやがった! 上空から俺たちを捕捉してる!」


万事休すか。どこへ逃げても、このデジタルの網からは逃れられない。子供たちの生命維持装置のバッテリーも、刻一刻と尽きようとしていた。


「…もう、ここまでか…」倉持の指が、止まった。


「いや、まだだ」ユウトが、喘ぐような声で言った。「まだ、一人だけ、頼れる人がいる」


彼は、片手でハンドルを操作しながら、小岩篤に、暗号化された回線でコールを入れた。


『…ユウト君か! 無事だったか!』

「小岩さん! 追われています! 子供たちが…もう時間がありません! どこか…どこか、奴らの目から逃れられる場所はありませんか!?」


数秒の沈黙の後、小岩の声が、決意を秘めて返ってきた。


『…分かった。一つだけ、おそらく奴らも存在を知らない“聖域”がある。だが、そこへ行くには覚悟がいるぞ』


地下の聖域へ

小岩が告げたのは、再開発によって完全に見捨てられ、今はもう地図にさえ正確に載っていない、旧首都高速の、閉鎖された地下トンネル網の入り口だった。


「その入り口は、巨大な換気施設に偽装されている。電力も、独自の自家発電で賄われているはずだ。そこなら、奴らの追跡も、一時的には振り切れるかもしれん」


ユウトは、小岩から送られてきた座標だけを頼りに、搬送車を走らせた。後部座席では、ユアンの呼吸が少しずつ浅くなっているのを、モニターが示している。


「倉持さん、バッテリーが…!」

「分かってる! あと10分もたない…!」


巨大な換気塔が見えてきた。だが、その周囲には、すでに数台の黒い車両が展開し始めていた。教団の先回りだ。


「間に合わなかったか…!」


ユウトがハンドルを握りしめ、絶望に顔を歪ませた、その瞬間だった。

換気塔の足元、偽装された巨大な防音壁の一部が、重々しい音を立ててスライドし始めたのだ。


そして、その開いた闇の中から、一台の古い四輪駆動車が、ヘッドライトをハイビームにして飛び出してきた。その車は、教団の車両の側面に猛然と体当たりし、道を塞いでいた一台を吹き飛ばした。


「ユウト君! 今だ、入れ!」


インカムから、小岩の叫び声が響く。

ユウトは、一瞬の躊躇の後、アクセルを踏み込んだ。搬送車は、小岩が作ったわずかな隙間を縫うようにして、地下トンネルの暗闇へと吸い込まれていった。


背後で、防音壁が再び閉じていく。教団の怒号と、発砲音が、厚いコンクリートの壁に阻まれ、次第に遠ざかっていく。


完全な闇と静寂。

ユウトは、荒い呼吸を整えながら、車を止めた。後部座席では、倉持が予備電源を求め、必死で機材を操作している。


彼らは、かろうじて生き延びた。

だが、それは、新たなる戦いの始まりを告げる、ゴングの音に過ぎなかった。地上から隔絶されたこの地下迷宮で、彼らは、子供たちの命と、この国の未来を賭けた、次なる作戦を開始しなければならない。残された時間は、あまりにも少なかった。

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