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種をまく人 Phase 4「善意という名の支配」(再編集版 ⑬~⑯)

種をまく人⑬

地下の盟約

 古びた地下喫茶店。裸電球の頼りない灯りが、壁に染み付いた長年のタバコのヤニと、

床にこぼれたコーヒーの染みをぼんやりと浮かび上がらせていた。湿り気を帯びた空気は

重く、カビとコーヒー豆の入り混じった独特の匂いが漂い、そこだけが外界の喧騒から

切り離された、息を潜めるための避難所めいていた。


 その片隅の、ひときわ薄暗いテーブルを、長谷川圭一、ミドリ、そしてスアン・チャンの三人が、言葉もなく囲んでいた。それぞれの胸の奥底には、愛する者を奪われた深い絶望と、しかし決して消し去ることのできない怒りの熾火(おきび)が、静かに、しかし確かに燃え続けていた。そして、あまりにも脆く、儚い、ほんのわずかな“希望”の欠片を、彼らは互いに見透かされぬよう、必死で胸の内に隠していた。


「……もう、終わりにするしかないんでしょうか……」

最初に沈黙を破ったのは、ミドリだった。その声は、涙で濡れ、か細く震え、まるで壊れかけた弦楽器のようだった。彼女の視線は、虚ろにテーブルの一点を見つめている。

「カナが…あの子が、今どこで、どんな目に遭わされているのか…考えるだけで、気が狂いそうになる。警察は当てにならない。私たちに、一体何ができるっていうの…? もう、何も…」


 スアンもまた、顔を覆ったまま、嗚咽を必死で押し殺していた。ユアンの、日に日に衰弱していく小さな身体、そして“治療”という美名の下で繰り返される非道な実験の記憶が、彼女の心を容赦なく苛む。

「私のせいです…私が、もっと早く、あの組織の異常さに気づいていれば…私が、もっと強ければ…ユアンも、そしてカナちゃんも……」

罪悪感という名の重い鎖が、彼女の全身を縛り付けているかのようだった。


 長谷川は、二人の母親の痛みを、まるで鋭い刃で自らの胸を抉られるかのように感じながら、固く目を閉じた。失われた日常の温もり、無残に引き裂かれた家族の絆、そして何よりも、自分の娘を、友人の娘を、守りきれなかったジャーナリストとしての無力感…。それら全てが、彼の肩に重くのしかかっていた。


 だが、ここで潰えるわけにはいかない。彼はゆっくりと目を開け、その瞳には、深い絶望の淵から湧き上がる、鋼のような、しかしどこか痛々しい光が宿っていた。


「……いや、まだだ」長谷川の声は低く、しかし確かな意志が込められていた。

「まだ、終わらせるわけにはいかない。ミドリ、スアンさん。俺たちは、確かに無力かもしれない。巨大な象の前に立ちはだかる、ちっぽけな蟻かもしれない。だがな…」


 彼は、テーブルの上で固く握りしめられていた自分の拳を見つめた。

「蟻にだって、守りたいもののためなら、象に立ち向かう勇気がある。そして何より、俺たちには、まだ“戦う理由”が、この胸の奥底に、焼け付くように残っているはずだ!」


 彼の脳裏に、かつて同じ志を持ち、腐敗した権力に共に立ち向かった、今は亡き先輩ジャーナリストの顔が浮かんだ。そして、都会の欺瞞に背を向け、今は静岡の山村で、土と共に生き、新たな価値を静かに育んでいるはずの、あの実直な男――ユウトの顔も。彼が生涯をかけて追い求めた“真実”と“人間の尊厳”が、今、無残に踏みにじられようとしている。

「諦めていない仲間が、まだいるはずだ。…いや、俺が必ず、その声を繋ぎ合わせる。まずは、カナの居場所を特定し、必ずこの手に取り戻す。そしてユアンちゃんを、奴らが“AIが最適化した命の市場(マーケット)”と嘯く、あの忌まわしい“臓器選別”のシステムから、絶対に引きずり出すんだ!」


 その言葉には、もはやジャーナリストとしての冷静さを超えた、父親としての、そして

一人の人間としての、魂の叫びが込められていた。

「そのためには、あの教団〈魂の解放同盟〉の、国家をも操る鉄壁の情報ネットワークに、何としても楔を打ち込み、風穴を開ける必要がある。奴らが振りかざす、人の命に無慈悲な“ラベル”を貼り付ける、あの冷酷なシステムそのものを、俺たちの手で破壊するために!」


―その頃、遠く離れた山村では、ユウトもまた、見えざる敵との静かで、しかし熾烈な戦いの渦中にいた。

村人たちの決意を目の当たりにしながらも、圧倒的な力の差、そして情報戦における無力さを痛感していた。この“静かな侵略”に対抗するには、外部の状況を知り、この巨大なシステムの弱点を突ける専門的な知識と、共闘できる仲間が必要だ――。

(……長谷川さん…彼は今、都市で何を見ているんだろうか。彼なら、この見えない敵の正体に気づいているかもしれない。相談するなら、彼しかいないかもしれない…)

ユウトが、そう思い悩み、長谷川への連絡を逡巡していた、まさにその時だった。


 地下喫茶店の重い空気を破るように、長谷川は意を決して、年季の入ったスマートフォンを取り出し、ユウトの番号を呼び出した。ミドリとスアンは、固唾を飲んでその様子を見守っていた。

コール音が、まるで永遠のように長く感じられた。


「ユウトか?……長谷川だ。長谷川圭一だ」

数秒の、息の詰まるような沈黙の後、受話器の向こうから、土の匂いと、どこか懐かしい風の音が混じるような、静かで、しかし芯のある声が返ってきた。


「……長谷川さん。ええ、もちろん覚えていますよ。あなたが私に連絡をくださるなんて…よほどのことがあったのですね。声で分かります。…実は、俺も、今まさにあなたに連絡を取ろうかと考えていたところだったんです。都会の“澱み”は、どうやら俺たちの村にまで、形を変えて流れ込んできているようです」

ユウトの声には、長谷川のただならぬ気配を察した、深い洞察力と、そして彼自身が直面している危機感が滲んでいた。


 長谷川は、ユウトの言葉に驚きつつも、一呼吸置き、言葉を選びながらも、切迫した声で、カナとユアンの状況、そして教団の非道さを伝えた。そして最後に、こう懇願した。

「頼みがある、ユウト。あんたの知る限りで、最高の、いや、最も“深く”、そして“法の光が届かない闇”にさえも静かに潜れるIT技術者――良心を持ったハッカーを探してほしいんだ。俺の娘が、そして友人の娘が、命の危険に晒されている。ユアンという少女を救うには、教団の“血塗られた裏帳簿”とも言うべきサーバーにアクセスし、彼らのシステムを内部から叩き潰せる人間が必要なんだ。一刻の猶予もない。頼む、この国の最後の良心に、力を貸してくれ!」


 電話の向こうで、ユウトの息をのむ音が聞こえた。彼自身の村が直面している問題と、長谷川が語る都市の闇が、不気味なほどに重なり合っていることを、彼は瞬時に理解しただろう。そして、数秒の重い沈黙。やがて、ユウトは、万感の思いを込めたような、深い溜息と共にかすれた声で応じた。

「……わかりました、長谷川さん。あなたの声を聞けば、それがどれほどのことか、痛いほど伝わってきます。そして、驚かれるかもしれませんが、俺たちの村も今、同じような…いや、形は違えど、根は同じ“見えない侵略”に晒されています。“未来応援ポイント”という名の、巧妙な罠によって、です。あの子の…そして、この国で声なき声として消されていく多くの人々の“命の価値”を、金儲けの道具として弄ぶ者たちがいるというのなら…。それを正すためには、おそらく、僕たち自身の“存在理由”そのものが、厳しく問われることになるでしょうね。ですが…ええ、やらなければならない。この腐りきった流れを、どこかで断ち切らなければ。そして、俺たちが“選び直す未来”を、この手で掴み取らなければ」


 長谷川は、受話器の向こうから聞こえてくるユウトの声に、確かに聞いた。それは、絶望的な状況の中にあっても、決して諦めることなく、誰かを救うために、そして人間としての尊厳を取り戻すために、困難な問いを引き受け、再び泥濘(ぬかるみ)の中を歩き出そうとする、“覚悟を決めた人間”の、静かで、しかし何よりも熱い魂の響きだった。

そして、それこそが、この巨大な欺瞞と暴力が支配する、壊れかけた国の中で、まだ唯一残された、“未来への再建の、小さな、しかし確かな狼煙”なのかもしれないと、長谷川は強く、強く確信していた。


 彼の隣で、ミドリとスアンの瞳にもまた、ほんのわずかではあったが、涙の奥に、小さな星が灯った。絶望の底で灯された小さな光が、まだ見ぬ夜明けを照らしていた。それは、“人間として生き直す”ための、たった一歩の始まりだった。 天才ハッカー・倉持

 

電話の向こうで、ユウトは長谷川の切羽詰まった声のトーン、その言葉の端々に滲む焦燥と悲痛さから、事態が尋常ではないことを瞬時に察していた。カナとユアンという二人の幼い少女が置かれた絶望的な状況、そして長谷川が対峙している〈魂の解放同盟〉という組織の、底知れない巨大さと氷のような非道さを聞くうちに、彼の顔からは村での穏やかな日々が育んだ柔和な表情が消え失せ、かつて都市のシステムという名の迷宮で、不正と孤独に戦い続けていた頃の、鋭く、そしてどこか物悲しい光がその双眸に宿っていた。


「長谷川さん……あなたの話、そしてその声を聞けば、それがどれほどのことか、痛いほど伝わってきます」ユウトは、一度言葉を切り、遠くで聞こえる沢の音に耳を澄ませるかのように、わずかな間を置いた。


「心当たりが、一人だけいます。彼ならば、あるいは……。ただし、長谷川さん、彼が我々に協力してくれるかは、正直なところ五分五分です。いや、もっと低いかもしれない。彼は……数年前に、ある“仕組み”の、その底知れない闇の深さに触れてしまったんです。そして、人を、社会を、心の底から信じられなくなっている」


ユウトが重い口調で語ったのは、倉持健(くらもち けん)という名の男だった。彼は決してメディアが騒ぎ立てるような「時代の寵児」ではなかったが、そのプログラミングの腕はまさしく天才的だった。ユウトとは大手IT企業で同期として入社し、表向きはごく普通のシステムエンジニアとして、黙々と仕事をこなしていた。だが、その裏で彼が持つ常軌を逸したハッキングスキルと、システムの脆弱性を見抜く鋭い慧眼に気づいていたのは、おそらくユウトただ一人だっただろう。二人は、時に社会をより良くするためのシステム開発に情熱を燃やし、夜を徹して語り合った仲でもあった。


 しかし、倉持は数年前、ある巨大プロジェクト――現在の「未来応援ポイント制度」の原型とも言える国民監視・評価システムの開発――に深く関わる中で、その非人道的な本質と、それがもたらすであろう恐るべき未来を目の当たりにしてしまったのだ。それに加担することを拒絶し、激しい葛藤の末、彼は全てを捨てて業界から完全に足を洗い、人知れずデジタル社会の片隅へと姿を消していたのだった。


 ユウトは、震える指で、ほとんど使うことのなくなった古いアドレス帳から倉持の連絡先を探し当てた。コール音が、まるで深海に沈んでいく重りのように、重く、そして長く感じられた。数回の呼び出しの後、ようやく繋がった電話の向こうから聞こえてきた倉持の声は、ユウトの記憶にある、かつてのどこか少年のような快活さとは似ても似つかぬ、ひどく警戒し、世を拗ね、そして深く疲弊しきった、まるで埃をかぶった機械が軋むような響きを持っていた。その声は、彼が好んで引きこもる薄暗い部屋の空気をそのまま纏っているかのようだった。


「……ユウトか。何の用だ。悪いが、俺はもう、お前らがいる“表”の世界の人間とは一切関わりを持ちたくない。特に、あの忌々しい“ポイント制度”が、まるで疫病のように社会の隅々まで蔓延(はびこ)るようになってからはな…」

その声には、拭い去ることのできない深い絶望と、社会全体への強い不信感がこびりついていた。


「倉持、頼む、最後まで聞いてくれ!」ユウトは、受話器を握りしめ、必死の形相で訴え

かけた。「俺たちの友人が…いや、それだけじゃない、まだ何も知らない、未来ある子供たちが、巨大な、そして底知れない悪意によって、今まさに命の危険に晒されているんだ! 君の力が必要なんだ、倉持! どうしても、君のその、誰にも真似できないハッキングの技術でしか、救えない命があるんだ!」


ユウトの必死の説得にも、倉持の心は頑なに閉ざされたままだった。

「…また、あのシステムの悪夢の続きか…? 俺はもう関わらないと、そう決めたはずだ。

俺の技術が、結局はあんなおぞましいものに使われるのは、もうたくさんなんだ…!

あの時、俺がもっと早く気づいていれば…いや、俺が何もしなければ…!」


彼の言葉は、途中で苦しげな呻きに変わり、電話の向こうで、彼が過去の自責の念と、

未来応援ポイント制度への激しい嫌悪感に再び苛まれているのが痛いほど伝わってきた。


「俺の力が、また誰かを不幸にするだけだ…もう、こりごりなんだよ…あの時のように…俺が良かれと思ってやったことが、結局は…」 倉持の言葉は、途中で苦しげな呻きに変わり、電話の向こうで、彼が過去の悪夢に再び苛まれているのが痛いほど伝わってきた。ユウトは、どう言葉を続ければ彼の心を動かせるのか、必死で言葉を探していた。しかし、倉持の抵抗はあまりにも頑なだった。


やがて、重い沈黙の後、倉持は一方的に電話を切ってしまった。

「……くそっ…ダメか…」 ユウトは、力なくスマートフォンを握りしめ、長谷川に状況を伝えた。

「長谷川さん、申し訳ない…やはり、彼を説得するのは難しいようです。過去のトラウマと、例のポイント制度への強い嫌悪感が、彼を頑なにさせている…」


長谷川は、ユウトからの報告に唇を噛んだ。だが、諦めるわけにはいかない。


「ユウト、彼の電話番号を教えてくれ。俺が直接話す。いや、待て。彼に、俺から電話があったと伝えて、折り返し電話をもらうようにできないか? いきなり俺から電話しても、警戒して出ないかもしれない」 ユウトは頷き、すぐに倉持に短いメッセージを送った。


「倉持、さっき話した件で、長谷川圭一というジャーナリストが直接君と話したいと言っている。非常に切羽詰まっている。一度だけでいい、彼の話を聞いてやってくれないか。頼む」

数分後、長谷川のスマートフォンが震えた。表示されたのは、非通知の番号。長谷川は息を整え、応答した。


「……もしもし」


「……倉持だ。ユウトから聞いた」


 電話の向こうから、警戒心と疲弊感が滲む低い声が聞こえた。

「倉持さん、時間を取ってくれて感謝する。俺は長谷川圭一。ジャーナリストだ」

  長谷川の声には、ユウトとは異なる、長年修羅場を潜り抜けてきた者特有の、冷静さと切迫感が同居していた。


「今、俺の娘が、そして私の友人の娘も、〈魂の解放同盟〉という組織に、その命を弄ばれようとしている。その組織が、あんたが憎んでいるであろう、あの“未来応援ポイント制度”と深く結びついていることも、俺は掴んでいる」 電話の向こうで、倉持が息をのむ音が微かに聞こえた。彼の警戒心が一段と高まったのが分かる。


 長谷川は続けた。「あんたが過去に何を経験し、何を背負っているのか、俺は知らない。詮索するつもりもない。だがな、倉持さん…目の前で消えかかっている小さな子供たちの命を救うために、その力を貸してはくれないか! これは、金のためでも、名声のためでもない。ただ、罪のない、無垢な命を守るためなんだ!」


 電話の向こうで、長い、息詰まるような沈黙が続いた。風の音か、あるいは倉持の押し殺したような息遣いか、微かなノイズだけが鼓膜を揺らす。長谷川は、額に滲む汗を感じながら、ただじっと、彼の返事を待った。


そして、ようやく、絞り出すような、それでいてどこか諦観にも似た響きを帯びた声が、

受話器の向こうから微かに聞こえてきた。 「……子供…だと……? あのシステムが…〈魂の解放同盟〉が、ついにそこまで…子供たちの命まで、ポイントで弄ぶようになったというのか……」 その声には、深い絶望と、そしてそれを上回るほどの、静かな、しかし烈しい怒りが込められているように長谷川には感じられた。


「……わかった。一度だけだ。話だけは、聞いてやる。だがな、長谷川さん…期待だけはするなよ。俺は、もう誰も……特に、あのシステムに関わる連中を、一切信用していないんだからな」 その言葉の最後は、再び深い闇の中に消えていった。だが、長谷川は、その声の奥にかすかに灯った、ほんの小さな、しかし無視できない“何か”を、確かに感じ取っていた。それは、絶望の灰燼の中から、かろうじて拾い上げられた、人間としての最後の矜持、あるいは、かつてユウトと共に抱いた理想の残滓だったのかもしれない。

「倉持さん、感謝する。詳しい話をするために、すぐにこちらへ来てほしい。いや、それが無理なら、安全な方法で連絡を取り合いたい。場所は――」 長谷川は、電話の向こうのユウトにもこの朗報をすぐに伝えるべく、心の中で安堵の息をついた。まだ、希望の糸は、完全には断ち切られてはいなかったのだ。 こうして、過去の傷とシステムの闇に囚われた孤独な天才ハッカーと、愛する者を守るために全てを賭けるジャーナリスト、そしてその仲間たちの、危険な戦いが、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。その先には、想像を絶する暗黒が広がっていることを、彼らはまだ、完全には理解していなかった。


種をまく人⑭

絶望の中の策謀 ― スアン、再び教団へ

 数日後、都会の喧騒から隔絶された古いビルの地下にある、今は使われていないジャズ喫茶の跡地が、彼らの隠れ家となっていた。カビと埃の匂いが混じり合う薄暗がりの中、長谷川圭一、ミドリ、スアン・チャン、そして遠く静岡の山村から駆けつけたユウトに促され、重い足取りで現れた倉持健が、一つのテーブルを囲んでいた。倉持は、神経質そうに時折自分の指を弄びながらも、その双眸の奥には、まだ消えやらぬ知性の鋭い光と、過去の傷跡を物語る深い苦悩の色が複雑に浮かんでいた。壁には、色褪せたジャズミュージシャンのポスターが、この密談の証人のように静かに彼らを見下ろしている。


 倉持は、かすれた声で、しかし淀みなく、長谷川たちが命がけで集めた教団〈魂の解放同盟〉に関する断片的な情報と、彼自身がデジタル世界の闇の底から独自に探り当てた情報を組み合わせ、驚くべき、そして絶望的な分析結果を提示した。テーブルの上に広げられたノートパソコンの画面には、複雑なネットワーク図と、暗号めいた文字列が映し出されている。


「〈魂の解放同盟〉…その情報インフラは、想像を遥かに超えている。単なる宗教団体や企業連合体のレベルじゃない。これは、国家レベルの、いや、あるいはそれ以上の鉄壁のセキュリティで守られた、自己完結したサイバー要塞だ。外部からの通常ルートでのハッキングは、ほぼ不可能と言っていい。時間の無駄だ」


 倉持の言葉は、一縷の望みを打ち砕くかのように、冷ややかに響いた。部屋の空気が、

一瞬にして凍りつく。ミドリは息をのみ、スアンは唇を固く噛み締めた。

「だが…」倉持は続けた。その声には、わずかな、しかし確かな変化があった。


「どんな完璧なシステムにも、必ず“人間の介在”という脆弱性が存在する。もし、内部から…それも、中枢に近い幹部クラスの人間が日常的に使用する端末から、私が開発したこの特殊なプログラムを、ほんの数秒間実行させることができれば…あるいは、ごく短時間、例えばメンテナンス時間などを装って、物理的に彼らのメインサーバーへのアクセスポイントを確保できれば、話は別だ。鉄壁の要塞にも、秘密の抜け道くらいは掘れるかもしれない」


 その言葉に、部屋の重苦しい沈黙が一層深まる。内部からのアクセス…それは、あまりにも危険すぎる、虎の穴に自ら足を踏み入れるような任務だった。誰が、そんな命知らずの役目を担うというのか。


 長谷川は、苦悩に顔を歪ませながら、ゆっくりとスアンの方を向いた。その視線は、言葉にならないほどの重い葛藤と、そしてスアンに対する深い申し訳なさを含んでいた。


「スアンさん……あなたに、とんでもなく…本当に、命の保証などできない、危険なことを頼まなければならないかもしれない。もし…もし、あなたが再び教団に接触し、彼らの懐深くにまで入り込むことができれば……倉持さんの言う、その“万に一つのチャンス”が、生まれるかもしれないんだ」 その言葉は、まるで重い鎖のように、スアンの肩にのしかかった。


 ミドリが、悲鳴に近い声を上げた。「圭一さん!あなた、本気で言ってるの!? スアンさんに、そんな…そんな危険すぎる真似をさせるなんて…! 彼女が、どれだけ苦しんできたか、分かっているでしょう!?」その瞳には、怒りと、スアンを案じる友情が燃えていた。


 だが、スアンは、意外なほど落ち着いた、しかし芯の通った声で、その場にいる全員の

視線を一身に集めながら言った。その瞳には、もはや以前のような怯えや迷いはなく、

全てを覚悟した者の、静かで強い決意の光が宿っていた。


「やります」


 その一言は、地下の湿った空気を震わせた。


「長谷川さん、ミドリさん。私は、もう逃げません。自分の弱さからも、あの組織の脅威からも。ユアンを、そして…私にできなかったばかりに危険な目に遭わせてしまったカナちゃんを、この手で救い出すためなら…私が、悪魔にだってなってやる。いいえ、あるいは…これが、私に残された、人間としての最後の証なのかもしれない」


  彼女の脳裏には、ユアンの「新たな投薬計画」という名の、事実上の死刑宣告、そして、あの感情のない声が告げた「別の可能性」という不気味な言葉が、鮮明に蘇っていた。それは、教団が彼女に何かをさせようとしていることの、そして、彼女がまだ彼らにとって「利用価値のある駒」だと思われていることの、何よりの証左でもあった。


「私には…あの人たちに近づける“理由”があるはずだから。彼らは、私をまだ“使える”と、そう思っているはずだから…」


 スアンは、倉持から、まるでスパイ映画に出てくるような特殊な小型装置(データ通信を傍受し、極秘裏に外部へ情報を送信するためのもの)と、万が一の事態に陥った際の緊急時の連絡方法、そして教団のシステムにプログラムを仕掛けるための、ごく短い手順を、息を詰めて頭に叩き込んだ。それは、失敗が許されない、あまりにも危険な綱渡りだった。


  そして、彼女は、震える手で、しかしその瞳は決して逸らさずに、教団の連絡員に指定された番号へ、「ユアンの治療について、そして今後の私の“協力体制”について、直接お話したい方がいる」と、最大限の恭順の意を装って連絡を入れた。


 数時間の、針の筵のような沈黙の後、教団側から返信があった。スアンの申し出を、疑念を抱きつつも受け入れる、という内容だった。彼女を厳重な監視下に置きながら、その利用価値を最後まで探ろうという魂胆が見え透いていた。約束の場所は、都心にありながら外部からはその実態が一切窺い知れない、厳重な警備体制が敷かれた教団の関連医療施設。


 かつてユアンが悪夢のような“治療”を受けた、あの場所だった。スアンは、そこへ、たった一人で向かうことになった。


 出発の朝、隠れ家の小さな窓から差し込む、弱々しい朝日の中で、長谷川は、スアンの手を強く、強く握りしめた。その手は、驚くほど冷たかった。


「スアンさん、絶対に、絶対に無理はしないでくれ。君の命が、何よりも一番大切なんだ。ユアンちゃんも、カナも、君が無事でなければ、救えない」


 彼の声は、父親としての、そして同じ組織と戦う仲間としての、心からの叫びだった。 スアンは、初めて、心の底からの、しかしどこか儚げで、それでいて聖母のような力強い笑みを浮かべた。


「大丈夫…私には、守らなければならないものがあるから。そして…私を信じて待っていてくれる、あなたたちがいるから」


 それは、絶望の淵で、愛する者を守るために、そして自分自身の魂を救うために、たった一人で最も危険な戦場へと赴く母親の、悲壮なまでの覚悟と、無限の愛に満ちた微笑みだった。彼女は、一度だけ深く頷くと、静かに隠れ家を後にした。残された長谷川、ミドリ、ユウト、そして倉持は、彼女の小さな後ろ姿が雑踏の中に消えていくのを、ただ言葉もなく見送ることしかできなかった。その姿は、あまりにも頼りなく、しかし、彼らの胸には、彼女が灯した希望という名の小さな灯火が、確かに揺らめいていた。


種をまく人⑮

潜入、そして暗黒の扉

 重々しい鉄の扉の向こう、白衣を纏った者たちがまるで感情を持たないロボットのように無機質に行き交う長い廊下を、スアン・チャンは、教団〈魂の解放同盟〉の案内に従い、

一歩一歩、しかし確かな足取りで進んでいた。彼女の心臓は、肋骨の下でこれまでにないほど激しく高鳴り、破裂してしまいそうだったが、その表情は驚くほど平静を装っていた。


 強張る指先で握りしめた小さなバッグの中には、倉持健から託された、最後の“希望”とも言える小型デバイスが、冷たい感触と共に隠されている。


(大丈夫…私はできる…ユアンのために、カナちゃんのために、そして…私自身のために…) スアンは、心の中で何度もそう繰り返した。


 厳重な幾重ものセキュリティチェックを終え、スアンは教団の関連医療施設の最深部、

自動ドアの向こう側へと足を踏み入れた。 目の前に広がっていたのは、無機質で、あまりにも清潔すぎて逆に不気味なほどの、白い空間だった。壁には何の装飾もなく、ただ等間隔に並べられた観葉植物と、今は誰もいない受付カウンターだけが、この施設が“通常ではない特別な場所”であることを、雄弁に物語っていた。まるで、生命の温もりを拒絶するかのような、冷たい静寂が支配していた。


「ようこそ、スアン・チャンさん。こちらへどうぞ。皆様がお待ちです」 姿勢の正しい、しかしどこか人間味の希薄な中年女性が、一切の感情を殺した抑揚のない口調でスアンを奥の部屋へと案内する。その足音だけが、やけに大きく廊下に響いた。


(ここに…ここにユアンを苦しめた“治療計画”を立て、そしてカナちゃんを誘拐した者たちがいる――!) スアンは、ポケットの内側にそっと忍ばせた倉持の小型デバイスの存在を、指先で確かめながら、深く、静かに息を吐いた。倉持から指示された「接続の瞬間」は、この施設のさらに奥深くにあるであろう“ある部屋”でしか訪れない。条件は、あまりにも厳しい。会話の最中に、教団の幹部クラスが使用する特殊な端末が、ほんの一瞬だけ、施設の強力な電波妨害シールドの外に出る――その刹那を捉え、デバイスを密かに近づけ、必要なデータを傍受し、そして敵に逆探知される前に、即座に接続を遮断すること。


――成功のための猶予は、わずか20秒以内。失敗は、即、破滅を意味する。


 案内されたのは、窓一つない、息詰まるほどに殺風景な会議室だった。テーブルの中央には、高価そうな、しかし冷たい印象を与える黒曜石の灰皿だけが置かれている。そこに待っていたのは、以前、彼女を悪夢のような邸宅で脅しつけた、あの張俊傑と、その妻リ・シュイだった。彼らは、以前と変わらぬ、全てを見透かすような冷笑を浮かべていた。 だが、その奥の、一段高い椅子には、スアンが見たことのない男がもう一人、ゆったりと座っていた。仕立ての良い黒のスーツに、寸分の隙もなく結ばれた灰色のネクタイ。その男は、どこか飄々とした、掴みどころのない雰囲気を漂わせていたが、その静かにスアンを見つめる瞳の奥には、底知れない冷酷さと、獲物を見定めるような鋭い光が宿っていた。


「初めまして、スアン・チャンさん。お待ちしておりました」男は、薄い唇に笑みを浮かべ、芝居がかった丁寧さで口を開いた。「私は、ナン・シュアンと申します。〈教団中央倫理管理室〉のコーディネーターを拝命しております。以後、お見知りおきを」 その肩書と、彼の纏う空気に、スアンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。「倫理管理室」――その言葉とは裏腹に、この男こそが、教団の非人道的な計画の中枢にいるに違いない。


「今日は、あなたの愛娘、ユアンちゃんの“輝かしい未来”について、そして、あなたの“新たなる貢献”について、極めて建設的で、有意義なご提案をさせていただきたく、お呼び立ていたしました」


 スアンは、あえて言葉を発せず、ただ黙して、しかし挑戦的な光を瞳の奥に強く保ったまま、ナン・シュアンを見返した。恐怖を悟られてはならない。今は、耐える時だ。


(この部屋のどこかに…あるいは、彼らが持ち込む端末の中に…倉持さんの言っていた“その端末”があるはず。私は、それを見つけ出し、どんな手段を使ってでも、あのデバイスを使う――それが、私に与えられた、たった一つの役目なんだから…!)


 その時、まるでスアンの内心を見透かしたかのように、張俊傑がスッと手元のタブレット端末を取り出し、指を滑らせた。その瞬間、スアンの心臓に、まるで高圧電流が流れたかのような激しい衝撃が走った。 (来た――間違いない、あれがターゲットの端末…! このタイミングを逃したら、もう二度とチャンスはないかもしれない…!)


潜入― 心臓の鼓動より速く、思考を研ぎ澄ませて

 張俊傑がタブレットに指を滑らせ、何らかのデータを呼び出そうとした、まさにその瞬間、スアンの心拍数は一気に跳ね上がった。だが、彼女の表情は、能面のように変わらない。 (今だ…! これしかない…!)

 

 彼女は、あたかも緊張をほぐすかのように、バッグの底に忍ばせていた倉持手製の小型デバイス――倉持が皮肉を込めて「Cradle(ゆりかご)」と名付けたその装置――を、膝の上に置いたスカーフでそっと覆い隠したまま、太ももの上へと滑らせるように移動させた。その動きは、計算され尽くした、水面下の白鳥の足掻きのように、誰にも気づかれぬほど自然だった。


(開始まであと5秒……倉持さんの指示通り、電波遮蔽フィールドの一瞬の隙を突く。張の端末が、クラウド認証のために外部ネットワークに接続するモードに入れば、傍受可能なチャンネルが、ほんの一瞬だけ、たった一つだけ開くはず――)


 ナン・シュアンが、まるでスアンの葛藤を楽しむかのように、ゆっくりと口を開いた。 「……スアンさん、あなたのその“深い母性ゆえのためらい”は、我々も十分に理解しているつもりですよ。母としての本能と、より大きな視点からの“社会全体の最適化”という崇高な要請との間で、心が引き裂かれるお気持ちなのでしょう。ですが、スアンさん、我々があなたとユアンちゃんに提供しようとしている道は、単なる現状維持としての、ありきたりな命の延命などではありません。それは、生命そのものの“定義の更新”であり、新たなる“存在のステージ”への飛翔なのです」


  張が、その言葉に重々しく頷いた。 「我々が行っている臓器マッチング、そして遺伝子情報の最適化は、古臭い宗教や、感情論に左右される旧時代の倫理観とは全く次元が異なります。これはただの、純粋な、そして最も進化した“科学”なのですよ。感情を排した、絶対的な効率性に基づいた科学です」


(あと3秒――!)


 スアンは、一瞬だけ俯いたふりをして、スカーフの下で、そっと「Cradle」の起動スイッチに指を触れた。デバイスが、まるで生き物のように、ごくかすかに震える。脈動するような淡い青色の光が、スカーフの薄い生地の下で、一瞬だけ明滅した。


【デバイス音声(スアンの脳内に直接響くインカムから):傍受開始】 

【デバイス音声:チャンネルスキャン中…一致:1】 

【デバイス音声:ターゲット端末認証キー確認中──】


「……私は」スアンは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、抑えきれない怒りと、

深い悲しみが、まるで嵐の前の海のうねりのように滲んでいた。


「私は、“科学”という美名を借りて、私の愛する娘を、あなた方の冷酷な実験の道具として弄ばれた、ただの母親です」


 彼女の声は、震えてはいなかった。だが、その一言一句に込められた重みは、部屋の空気をさらに緊張させた。


「あなた方が、その“最適化”という、まるでゲームの駒でも動かすかのような軽い言葉で語る“命”に、実際に触れた者の、その言葉にならないほどの苦しみや絶望を…あなた方は、本当に、心の底から理解しているとでも言うのですか…?」


 その一瞬、張のタブレットを操作する指が、ぴたりと止まり、ナン・シュアンの眉が、ほんのわずかに動いたのを、スアンは見逃さなかった。彼らの平静を装った仮面に、一瞬だけ亀裂が入ったのだ。


【デバイス音声:認証キー確認:完了】 

【デバイス音声:アクティブプロトコル:ECHO-DEPLOY】

【デバイス音声:データ転送ウィンドウ:残り15秒】


 スアンは、あたかもバッグからハンカチを取り出すかのような、ごく自然な動作で、

わずかに体をずらし、「Cradle」を膝の上から再びバッグの底深くへと滑り込ませる。 同時に、張のタブレットの通信プロトコル表示が、一瞬だけ「NeoSecure-Internal-Network」から「OpenBridge-Cloud-Auth」へと切り替わったのを、デバイスは自動的に検出し、記録を開始した。


(倉持さん……お願い……今だけは、私の、私たちの存在を、この絶望の闇の中から見つけ出して…!) スアンは、心の中で、ただひたすら祈った。


 その瞬間―― 張の鋭い視線が、まるで獲物を捉えた鷹のように、ピタリとスアンの微細な動きに止まった。彼の顔から、先ほどまでの余裕綽々の笑みが消え失せていた。


「……何を、そんなに緊張しているのですか? スアンさん。まるで、何か隠し事をしているように見受けられますが」


 空気が、一変した。部屋の温度が、数度下がったかのように感じられた。

(まずい――気づかれた……!?)スアンの背筋に、冷たい汗が流れる。


「おかしいですねえ」ナン・シュアンが、まるで蛇が獲物に忍び寄るかのように、静かに、しかし威圧的に口を開いた。


「今、この部屋の中にあるべきではない、極めて微弱な、しかし指向性を持った電波が、

ほんの一瞬だけ跳ねましたよ。まるで、何かのデータを外部に送信しようとしたかのように」


 彼は、こともなげに手首に装着された黒い複合素材の装置を操作し、部屋全体の空間スキャンを開始した。赤いレーザー光線が、蜘蛛の巣のように室内を走り、スアンの顔をなめらかに撫でた。


【デバイス音声:敵性スキャン検知。接続中断シーケンス開始まで:残り8秒】


 スアンは、とっさに、しかし必死で平静を装い、用意していた嘘を口にした。


「あ…申し訳ありません……体温計の代わりに、ユアンの自律神経活動をモニターする小型のセンサーを、今も私が身につけたままでして……最近、誤作動が多くて、時々、警告アラートのような微弱な電波を出してしまうことがあるんです」


 そう言って、彼女はバッグを慌てて開け、中から全く無関係な、ユアンが普段使っている小さなクマのぬいぐるみの形をしたバイタルセンサーを取り出して見せながら、あえて“誤検知”を演出した。


ナン・シュアンは、そのセンサーを値踏みするように一瞥し、目を細めたまま、隣の張と無言で視線を交わした。


【デバイス音声:データダンプ完了:44.7MB】 

【デバイス音声:「Cradle」システム、自動遮断モードへ移行。全機能停止】


スアンは、誰にも気づかれないように、ゆっくりとバッグを閉じ、指先で、バッグの底にある「Cradle」の物理的な電源スイッチを、確実にオフの位置へとスライドさせた。


 その時、ナン・シュアンが、ふっと肩の力を抜くようにして、小さく笑った。だが、その目は全く笑っていなかった。


「ふむ……なるほど。お嬢さんのことを思う、母親ならではの行動、ということですか。結構でしょう」彼は芝居がかった仕草で頷くと、再びあの掴みどころのない笑みを浮かべた。


「では、話を続けましょうか、スアンさん。あなたの愛するユアンちゃんに関して、あなたが本当に、心の底から望んでいらっしゃる“選択肢”とは、一体何なのか――その答えを、今度は、あなた自身の口から、じっくりと語っていただきましょうか」


スアンは、深く、静かに頷いた。心臓はまだ激しく鼓動していたが、彼女の瞳の奥には、

新たな、そしてより強固な決意の光が灯っていた。 (この会話も、この部屋で起きている全てのことも、私は記録している。そして、必ず、全てを白日の下に晒してみせる…!)


彼女の戦いは、まだ始まったばかりだった。そして、その小さなバッグの底で眠る「Cradle」が掴んだデータこそが、巨大な闇に風穴を開ける、最初の、そして最も重要な

一撃となるのかもしれなかった。


種をまく人⑯

赤き凶兆、そして託された想い

 スアン・チャンが都心で命がけの潜入を試みていた頃、ユウトは長谷川からの緊急の要請を受け、天才ハッカー倉持健との合流と、カナとユアン救出のための情報戦に加わるべく、故郷の村を後にして東京へと向かっていた。


 まさにその時―彼の愛する村では、残された仲間たちが、新たなる、そしてより凶悪な

脅威に晒されようとしていた。


 ユウトの不在は、村に微妙な影を落としていた。彼という精神的支柱を一時的に失った

村人たちの間には、先の水守源太の不当逮捕や、進行しつつある「NeoWater Holdings」による水源地買収計画に対する不安が、じわじわと広がっていた。それでも、ハルをはじめとする若い世代が中心となり、ユウトの意志を継いで村を守ろうと必死で日々の作業をこなし、互いを励まし合っていた。 「ユウトさんは、もっと大きな戦いに行ったんだ。俺たちが、この村をしっかり守らねえと」 ハルは、仲間たちにそう声をかけ、自らも先頭に立って農作業や村の見回りを行っていた。


 そんなある日の昼下がり、ハルの懸命な努力を嘲笑うかのように、悪夢は再び現実のものとなった。


 その日、ハルは一人で、数日前に撒かれた除草剤の被害状況を確認しつつ、再生可能な

作物が残っていないか、丹念に畑を見回っていた。


ユウトから「何か異変があればすぐに知らせてほしい」と固く言付かっていたのだ。 太陽がじりじりと照りつけ、汗が噴き出す。風は凪ぎ、鳥の声もどこか遠い。妙な静けさだった。 そして、彼は気づいた。あの時とは明らかに異なる、鼻腔の奥を刺激する、甘ったるく、それでいて金属的な異臭に。


「なんだ…? この匂いは…前とは違う…もっと、こう…まとわりつくような…」


 異臭の元を辿って、彼は村の子供たちが特に大切に育てていた、実験的な有機栽培のトマト畑へと足を踏み入れた。そして、そこで目にした光景に、ハルは言葉を失い、全身が総毛立った。

 畑一面が、まるで血の海のように、不気味なほど鮮やかな赤黒い液体で覆われていたのだ。だが、それは無差別に撒かれたものではなかった。


 まるで“見せしめ”のように、大切に育てられていた苗が並ぶ畑の中央部分だけが、狙い澄ましたかのように集中的に破壊され、その液体に浸かっていた。


 トマトの青々としていたはずの葉や茎は、その液体に触れた部分から急速に変色し、見るも無残に溶けかかっている。そして、何よりもハルを戦慄させたのは、その赤い円の中心で、無数の鳥や昆虫の死骸が、まるで儀式のように転がっている光景だった。小さな野ネズミまでもが、口から泡を吹いて事切れていた。これは、偶然の事故などでは断じてない。明確な悪意と、「我々に逆らう者はこうなる」という冷酷な“メッセージ”だった。


「うわあああっ…! なんだこれは! いったい何を…! 誰がこんな酷いことを…!」


  ハルは、思わず後ずさりしながら叫んだ。これは、もはや除草剤などという生易しいものではない。明らかに、強力な毒物だ。畑そのものを、そしてそこに生きる全ての生命を

根絶やしにし、彼らの心を折ろうとする、悪魔のような所業だった。 震える手でスマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとしたが、あまりのショックに指がうまく動かない。

彼は、この惨状を一刻も早く仲間に知らせなければと、よろめきながらも走り出した。


 村の集会所に駆け込むと、ハルは堰を切ったように状況を説明した。集まった村人たちは、彼の報告と、見せられた写真の異様な光景に顔面蒼白となり、恐怖と怒りに震えた。


「ひでえ…あまりにもひでえ仕打ちだ…! 子供たちが、あんなに楽しみにしていたのに…!」

「これじゃあ、もうあの畑は使い物にならねえ…土まで死んじまってるかもしれねえぞ…」 「この土地で、俺たちは本当に生きていけなくなるってことなのか…?」


絶望的な声が、あちこちから上がる。


 ハルは、唇を噛み締め、この状況を打開できるのは、もはや自分たちだけでは不可能だと痛感していた。そして、今、東京で巨大な敵と戦っているはずのユウトの顔が、彼の脳裏に浮かんだ。 (ユウトさん…あんたなら、こんな時、どうする…? 俺たちだけじゃ、もう…この村は…)


 その夜、ハルは一人、眠れぬ夜を過ごした。窓の外からは、虫の声一つ聞こえてこない。あの赤い毒物が、村の生態系を静かに、しかし確実に破壊し始めている証だった。 彼は、ごく限られた情報しか持たないながらも、この村で起きていることと、ユウトが東京で直面している問題が、無関係ではないと直感的に感じていた。そして、この村の危機をユウトに伝え、彼の知恵と、彼が新たに見つけ出したかもしれない“力”を借りるしかない、と。


 翌朝、ハルは、朝日が昇る前、まだ薄暗い中、一人であの赤い畑の前に立っていた。夜露に濡れた土は、不気味なほど静まり返っていた。彼は、その無残な光景を目に焼き付けるように見つめ、そして、震える声で、しかし確かな意志を込めて呟いた。


「この土の痛み、この村の叫び…必ず、必ずユウトさんに伝える…。そして、俺は…俺は、絶対に諦めねえ…!」


 それは、誰に聞かせるでもない、彼自身の魂への誓いだった。

そしてハルは、村の数人の若者に見送られ、固い決意を胸に、始発のバスに乗り込んだ。

目指すは、東京。ユウトにこの惨状を伝え、そして、彼と共に戦うために。 バスの窓から見える、朝靄に煙る故郷の山々が、やけに悲しく、そして美しく彼の瞳に映っていた。彼の小さな肩には、村の未来という、あまりにも重い荷物がのしかかっていた。

約束の時間  ハルが悲痛な決意を胸に東京へと向かった頃、ユウトは都内某所の安宿の一室で、長谷川、ミドリ、そして倉持健と共に、息詰まるような時間を過ごしていた。スアンが〈魂の解放同盟〉の関連医療施設へ潜入してから、既に数時間が経過していた。倉持が持ち込んだ機材のモニターには、スアンのバッグに忍ばせた「Cradle」から送られてくるはずのデータは、まだ何一つ表示されていない。約束の「接続の瞬間」は、まだ訪れないのか、それとも…。


「スアンさん…大丈夫でしょうか…」

ミドリが、憔悴しきった顔で呟いた。その手は、固く握りしめられ、真っ白になっている。彼女の不安は、カナのことだけではない。同じ母親として、危険な場所に単身乗り込んだスアンの身を案じずにはいられなかった。

長谷川は、無言で窓の外の、東京の夜景を見つめていた。その背中からは、焦燥と、そしてスアンに危険な役目を負わせてしまったことへの深い苦悩が滲み出ている。

ユウトもまた、倉持のPCの画面を食い入るように見つめながら、故郷の村のことが脳裏をよぎっていた。ハルや村の仲間たちは、今頃どうしているだろうか…。


不意に、ミドリが顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの不安の色とは異なる、強い意志の光が宿っていた。


「私…私、ここにこうして待っているだけなんて、もうできません! スアンさんだけに、あんな危険なことをさせて…もし、何かあったら…! 私にも、何かできることがあるはずです!」

「ミドリ、気持ちは分かるが、今は下手に動くのは危険だ」


長谷川が、静かに、しかし諭すように言った。


「スアンさんを信じて待つしかない。それに、君まで危険な目に遭うわけには…」

「でも!」

ミドリは立ち上がった。

「カナが…あの子が、どこにいるのかも分からないのに…! そして、ユアンちゃんも…! もし、スアンさんが掴んだ情報で、カナの居場所が分かったとしても、ユアンちゃんの“治療”を止める手立てが見つからなかったら…? あるいはその逆だったら…? 私たちは、どちらか一人しか救えないなんてことになったら…どうするの!?」


 ミドリの言葉は、その場にいた全員の胸に重く突き刺さった。カナの救出と、ユアンの治療の中止。二つの目的は、あまりにも困難で、そして、教団のやり方を考えれば、同時に解決できる保証などどこにもない。最悪の場合、どちらか一方の命を選択しなければならないという、非情な現実が待ち受けているかもしれないのだ。


その張り詰めた空気の中、倉持のノートパソコンが、静かに、しかし明確な電子音を発した。


「…来た!」倉持が、鋭く短い声を上げる。


 モニターには、暗号化されたデータが滝のように流れ込み始めていた。


「スアンさんが、やったんだ…! 短時間だが、教団の内部ネットワークへのアクセスポイントを確保できた!」


一同の顔に、一瞬、緊張と安堵が入り混じった表情が浮かぶ。


「カナの居場所は!? ユアンちゃんのデータは!?」

ミドリが、倉持の肩を掴まんばかりに詰め寄る。

倉持は、猛烈な勢いでキーボードを叩きながら答えた。

「まだだ…データの解析に時間がかかる。だが、確実に何らかの情報を掴んでいるはずだ。これは…教団の医療施設の患者管理システムの一部と、外部との通信ログの一部だと思われる…」


長谷川は、倉持の作業を見守りながら、わずかな光明に胸を高鳴らせつつも、即座に次の手を考えていた。


「倉持さん、解析を急いでくれ。ユウト、俺は一度事務所に戻る。このデータを元に、俺の方でも裏取りと、次のアクションプランを練る。ミドリさんは、ここで倉持さんと一緒に情報を待っていてくれ。何か動きがあれば、すぐに連絡を取り合おう」


この時点では、長谷川はまだ、彼自身に迫る見えない包囲網に気づいていなかった。

彼の行動は、既に逐一把握されていた。


事務所の罠、そして“善意”の仮面


 長谷川が、都心に借りている小さなジャーナリスト事務所のドアを開けたのは、それから約4時間後のことだった。古い雑居ビルの一室。中は、積み上げられた資料と、壁一面に貼られた事件の相関図で埋め尽くされている。彼は、すぐにパソコンを起動し、倉持からの続報を待ちながら、今回の事件の背後にある〈魂の解放同盟〉と、彼らが推進する「未来応援ポイント制度」、そして政界との繋がりを改めて整理し始めていた。カナとユアンを救い出すためには、単に教団の施設を襲撃するような無謀なことはできない。彼らのシステムそのものに打撃を与え、社会的な不正義を白日の下に晒す必要がある。


(…スアンさんが掴んだデータが、その突破口になるはずだ。小岩さんの番組とも連携できれば…)


 長谷川が思考を巡らせていると、不意に事務所の電話が鳴った。非通知の番号。警戒しながらも応答すると、それは、先日スキャンダル報道で彼を叩いた週刊誌の記者からだった。

「長谷川さん、また新たなタレコミがありましてね。あなたの“不正献金疑惑”、どうやらもっと根が深いようで…今日にでも、警察が本格的に動き出すって話ですよ。何かコメントは?」


その挑発的な口調に、長谷川は怒りを覚えながらも冷静に対応し、電話を切った。

(…警察が動く? やはり、あの報道は、俺を社会的に抹殺するための序章に過ぎなかったのか…)


 その直後だった。事務所のドアが、今度は何の断りもなく、荒々しく開かれた。

「長谷川圭一さんですね? 警視庁組織犯罪対策部の者です。あなたに、先日来ネット上で騒がれている一連の疑惑、及び現在捜査中の特殊詐欺グループとの関連について、いくつか詳しくお話を伺いたい。ご同行願います」


 スーツ姿の男たちが、令状らしきものを提示しながら、有無を言わせぬ口調で告げた。その目は、明らかに長谷川を“容疑者”として見ていた。


「…話が早すぎるな。任意、とは言わないのか?」長谷川は、自嘲気味に呟いた。

「状況を理解していただけると助かります。抵抗は、あなたにとって何のメリットもありませんよ」刑事の一人が、冷ややかに言い放つ。

長谷川は、一瞬、ミドリやユウトに連絡を取ろうとスマートフォンに手を伸ばしかけたが、刑事たちの鋭い視線にそれを阻まれた。

(…くそっ、これも奴らの計算通りか…! スアンさんがデータを送ってきた、このタイミングで…!)

彼は、なすすべなく両腕を掴まれ、事務所から連れ出された。積み上げられた資料、壁の相関図…それらが、まるで遠い世界の光景のように、彼の視界から急速に遠ざかっていく。


 一方、安宿では、ミドリ、ユウト、倉持が、長谷川からの連絡が途絶えたことに、言いようのない不安を感じ始めていた。そして、倉持の解析作業が進むにつれ、スアンが命がけで手に入れたデータの中に、カナとユアンに関する断片的な情報と共に、もう一つ、恐るべきファイルが発見される。それは、〈魂の解放同盟〉が、今回の長谷川のスキャンダルを捏造し、警察内部の協力者を使って彼を“合法的に”排除する計画を示唆する内部文書だった。


「…やはり、長谷川さんは嵌められたんだ…!」ユウトが、声を震わせた。

ミドリは、その場に泣き崩れた。

「そんな…圭一さんまで…じゃあ、カナは…ユアンちゃんは…スアンさんは…!」


倉持は、冷静に、しかしその瞳には冷たい怒りの光を宿して言った。

「…連中が次に仕掛けてくるのは、おそらく、もっと巧妙で、そして悪質な“正義の仮面”を被った何かだ。長谷川さんが表立って動けなくなった今、我々だけでスアンさんをサポートし、二人の子供を救い出さなければならなくなった」


倉持の予感は、的中することになる。


 数日後、長谷川の“事情聴取”は、表向き「疑惑に関する調査協力」という名目だったが、事実上の軟禁状態に置かれ、外部との連絡も厳しく制限された。そして、それと時を同じくして、一部のメディアやSNSで、新たな動きが始まったのだ。


 それは、これまで長谷川が批判してきた大企業や政治家たちが、こぞって「SDGs推進」「ダイバーシティ&インクルージョン」「女性のエンパワーメント」といった“耳障りの良いスローガン”を掲げた大規模なチャリティイベントやキャンペーンを開始したというニュースだった。そして、その広告塔には、清廉潔白なイメージの文化人や、人権派を自称するタレントたちが起用され、彼らは口々に「未来への希望」「持続可能な社会」「弱者への優しい眼差し」を語り始めた。


テレビの画面を見ながら、ユウトは吐き捨てるように言った。


「…偽善者どもが…。自分たちの足元で起きているおぞましい人権侵害には目を向けず、表向きは“善意”の仮面を被って、世間の目を欺こうという魂胆か。これもまた、〈魂の解放同盟〉が仕組んだ、大規模な世論操作の一環に違いねえ…」


 ミドリも、その欺瞞に満ちた報道に、深い嫌悪感を覚えていた。カナが、ユアンが、そしてスアンが苦しんでいるというのに、世間はこんな“作られた美談”に酔いしれているのか、と。


 長谷川という大きな力を失い、そして社会全体が偽りの“善意”に包まれようとしている中で、残されたミドリ、ユウト、倉持、そして潜入中のスアンは、絶望的な状況に追い込まれていく。


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